自然の詞・自然の規範

2018.01.09
序 はじめに

私は、2009年、53歳の時に、北海道の道東海岸に移住、太平洋に面した高台に暮らして、湖水地方牧場を経営し、海岸草原のブラウンスイスと、湿原のイタリア水牛の2系統酪農を行い、チーズやヨーグルトの乳製品を製造・出荷している。一方で、社団法人湿原研究所の代表理事を務め、地域の3自治体、ロケット事業企業等と連携して、自然博物館設立準備中だ。かつてなく、充実した日々を送っている。

 

しばしば、ここに至る経緯を、尋ねられる。だから、その経緯をか聞き記して、随想山水記の「序」とさせていただきたい。

 

最初に触れなければならないのは、35歳の時に、鎌倉材木座の富士和教会で神の使者を知ったことだ。こう書くと、大病や貧苦の不幸に出会って、新興宗教にはまったのだろうと考えるかもしれない。だが、そうではない。

私は20代にドキュメンタリストとして内外の取材に明け暮れたころ、新興宗教の取材をしたことがあるが、冨士和教会とはそうしたものではない。本業の都市計画家として、昨年まで、中国禅宗第一位の径山萬壽寺復興計画に、監修者として従事して、旧来の宗教にも比較的深く触れてきたが、それも違う。

「胸に手を当ててよく考えてみなさい」とは、子供を諭す時に親が言う言葉。内心の話だが、私は子供のころ、いつも胸に問いかけて様々な言葉を見つけた。そこで得た言葉が、世界を支配している原則であることを知っていたのだが、自我が発達する思春期には、その言葉を探し当てることができなくなった。

「小さいころは神様がいて」とは歌の文句だけれど、本当にそうだと思いながら、それ以後もいつも、世界を支配しているはずの言葉の出自を探していた。万巻の書に触れ、博物館美術館劇場に足を運び、旅に明け暮れ、できるだけ多くの人に会い続けた。しかし、その言葉は見いだせなかった。富士和教会は、ようやく探し当てた、その答えだったのだ。

 

神の使者は、神の詞を伝えていた。そして、変節を積み重ねた人の思考が、頑固な自我でがんじがらめになっている、その心を、自然な道理の世界に導きだす指導をする。人がそれを求めて、謙虚な心を取り戻すことが絶対条件だが、そんな指導ができる人は、おそらく、人類史上存在しなかっただろう。私は大いに感服してご指導を受けた。広く社会を知り、しかし、まだ自己が固まりきってはいない30代半ばの体験として、それは、格別に素晴らしい。本当に恵まれていたと思う。私の今の人生は、すべて、そこから始まったのだ。

 

私は、慶應義塾の経済を出て最初に、縁があって映画「戦場のメリークリスマス」の美術担当ラインプロデューサーの仕事についた。それは、人が生きる物語の舞台を作る、視覚的にはその風景を作る仕事だ。

フジテレビバラエティの放送作家など、20代にはいろいろな仕事を引き受けて遊んだけれど、のちに、ドキュメンタリストとしてアメリカの会社から「日本の肖像」という4時間ドキュメンタリー演出の依頼を受けて、2年間を費やした。アトランタで行った試写では、会社の担当者として全権を握るエグゼキュティヴプロデューサーが、「日本はお巡りさんが子供たちとお遊戯をして遊ぶ国だ。そんなエピソードを追加しろ」と、無理難題を押し付けて来た。どんな努力を費やしても、くつがえせなかった。万事休す、である。若者に年収4千万円を出すビジネスの内情はこんなものだった。

 

「戦場のメリークリスマス」、「ラストエンペラー」などをプロデュースした英国人のジェレミー・トーマスは、私と年齢もあまり変わらない若者で、ハリウッドのベル・エアーでお茶を飲みながら愚痴をこぼした。すると、「ユリーカ」という映画をハリウッドと共同製作した時に、同じことがあったと話してくれた。アメリカ人プロデューサーの注文を、監督のニコラス・ローグが受け入れられず、編集権を握るハリウッドがずたずたに改変した。ニコラス・ローグはその後、映画を作れなくなってしまった。編集権は人格権なのだ。アメリカはいつもこんな感じだ、と。アメリカは散々だった。

 

ちょうどノーベル賞を受賞して脚光を浴びているイシグロカズオ原作「浮世の画家」を、監督として映画化しないかという誘いに乗って、英国に移り住んだ。「日本の肖像」は完成して全米に放映されたが、私は見られなかった。アメリカに住む心ある人々は私を慰めたけれど、心無い人々は「とても素晴らしい作品だ」とお追従を言った。

 

ロンドンでは、早朝から脚本を書き始めて、疲れ果てる午後には、町に出て遊んだ。ニューヨークやハリウッドのホテルに滞在して、ビジネスミーティングに明け暮れる日々のたかぶった気持が、見る間に色あせていった。アメリカの日々は闘いだったが、ロンドンには「暮らし」があった。傷みつけられた心身が癒されていく。近所にあるスタジアムで、サッカーのある晩は決まって、チェルシーの応援歌が夜空に響き渡った。試合終了後の横町のパブでは、猛り狂ったフーリガンたちが、ビールで興奮を冷やした。

 

アメリカの仕事は小金を残したから、家内の白井温紀は、英国で一番授業料の高いカレッジを選んで、ガーデンデザインを学んだ。白井温紀は、90年代から21世紀初頭のガーデニングブームに乗り、NHKの番組の常連出演者として20年くらいはその仕事を楽しんだのだった。

 

英国では、少々規模が大きな開発計画は、ランドスケープ・アーキテクトがグランドデザインをつかさどり、インテリアデザイナー、建築デザイナー、ガーデンデザイナーなど、様々なデザイナーを指名して細部の設計を分担する。建築は、近代そのものだ。工学と美学の語法で、世界のすべての課題に立ち向かう。膨大なお金が動くから脚光を浴びる。フランシス・ベーコンは、人間が自然を支配するのだと書いた。西洋で困惑したのは、人が自然を支配していると、誰もが信じて疑わないことだ。その思想が、西洋近代を爆発的に進歩させた言動力だった。しかし、私の内心の言葉によれば、この世を支配しているのは自然の力だった。フランスの新哲学派の若者たちが、ノイローゼになりながら、ロゴス中心主義に回し蹴りを ! と語っていたことを、いつも思い出した。ランドスケープ・アーキテクトとして、自然と人間を取り持つ仕事ができるのではないか・・・。ロンドンでは、そんなことを、ふわふわと考えていた。

 

そんな日々の中で、あの内心の言葉がよみがえった。

内省が始まった。一生、英国で暮らそうかと考えていたのに、無性に日本に帰りたくなった。

脚本が完成するや、急いで日本に帰ると、幼馴染が、私が会うべき人が鎌倉にいると言う。案内を乞うてお目にかかったのが、富士和教会の神の使者だ。その方は、私が探し求めてきた内心の言葉を語っていた。1年半の間、週に何度も訪ねて確かめたが、どこからどう見ても本物だった。

大学の恩師が言った。「神が実在するのは、当たり前のことだ。誰が間に立つか、それが人類最大の設問なのだが、本物だと思える人物に出会ったということは、大変なことだ。ついて行くべきだ。」

 

問いかけと傾聴と内省の日々が始まった。鏡の前のガマガエルか、はたまた、標本箱に虫ピンでとめられた昆虫を観察するように、内心の隅々を観察し、身についた考え方の立て直しをさせていただいた。その過程で、「自然が神です」という神の詞を知った。ビンゴだ。そうか、やはりそうだったのだ・・・自然が世界を支配している。

 

今が何時か分からない、いつ夜が明けて日が暮れたのか分からないような、サウンドステージや編集室から逃れて、ランドスケープの仕事に軸足を移すのは当然の流れだった。

妻の実父が、大学で造園学を講じていた。軽井沢の万平ホテルに長逗留して、義父から個人授業を受けた。林の道を歩き、お茶をいただき、食卓を囲みながら、「頭の中のすべてを君に話す」との言葉通りに、果てしない講義を受けた。学究の勉学はそれで充分だった。庭園都市計画事務所がゆっくりと動き出した。

 

40代になると仕事は山のようにあった。学校を出て最初についた「人が生きる物語の風景を作る仕事」を、スクリーンの中ではなく、現実の世の中でつかさどる。

建築士の資格はとったけれど、工学の言語だけで世界を構築する思想だけでは、みずからの仕事にならない。自然生態学に軸足をおいた都市計画、庭園都市計画と銘打って仕事を請けた。

植物生態学者宮脇昭先生が、「白井さんの仕事ならどこにでも行く」と言って下さって、森を作りながら、風景造形を模索した。

共同講演会があって、私が前座を務めた。「私は、トラクタで畑を起こすと、その瞬間から数百年後の自然植生林復活に向けて、大地の修復が開始されるのを感じる。地上の出来事は、すべて、その大きな力の上で起きていることではないか。狂気や悪は、長い時間の中で淘汰されるが、同じ力の働きなのではないか・・・」と述べた。

帰りの車中で宮脇先生は、「本当だ、まったくその通りだ・・・」と、深いため息をつかれた。

生態学は科学ではないと言われることがある。生態学を科学化する努力に没頭している研究者もあるが、たどり着く先は言説、つまり、言葉である。生態学は科学的な研究を積み重ねて、思想にたどり着く。

 

40代は、身体の芯がいつも熱を発しているくらい、夢中に仕事に没頭し、経験の引き出しを増やした。理解したことは、美しい風景を作る仕事の基本は、マネジメントにある、ということだ。

スクラップ・アンド・ビルドという概念があるが、竣工した瞬間から劣化が始まるデザインと施工、金がふんだんに動くその仕事ではなく、生き続ける思想の上に代謝を続けるマネジメントこそが、本物の風景を作る。

設計、あるいは、都市計画家という立場は、このマネジメントを司る人々から、思想を形にする協力者としての仕事を請ける。マネジメント思想の実力が8割。私にできることは2割だ。

施主の思想を読解し、デザインの言語に置き換えて構成する。それは、施主の実力の範囲内の仕事に終始する。商業施設、住宅団地、寺院計画、イベント、日本庭園、リゾート計画・・・いつも不満だった。マネジメントの思想構築に参画できないからだ。知識と技術を提供するだけのコンサルタントは、生涯の仕事とは言えなかった。私は思想を練り上げたかったのだ。請負の仕事も、宮仕えも、思想的な自由はなかった。思想を紡ぐためには、自立した存在にならなければならない。伊勢の小児科医だった本居宣長は、自著出版のために、竹筒貯金をしながら思想を紡いだ。八戸の安藤昌益もまた、町医者として自立していた。

 

このままでは詰まらないと考え始めた40代後半に、神の使者が、「50歳を境に生き方を変えなさいよ」と、ぽつりとおっしゃった。そのころ縁があったのが、北海道の道東だ。考え方を変えると生き方が変わる、生き方が変わると運命が変わる・・・とは、使者の言葉だ。生き方を変えて、運命を変えて、人生の後半生にどんな果実を求めるのか。

50歳を過ぎたころに、請けていた大規模な仕事が4件、立て続けに竣工した。次の仕事を請けたら、竣工は60歳に近くなる。家内と相談して、事務所を片付け、決心して二人で道東への移住を決めた。国の内外、さまざまな土地に住んだが、住民票と本籍は53年間、大船にあった。これを動かしてみよう。道東で、自然を主題にして、社会事業を興したいと、漠然と思った・・・

 

中国浙江省の大学に、客員研究員として席を置いたのもこのころからだ。6年間在籍して、定期的に出かけていき、大学院でランドスケープについて講義をした。そこから、臨済禅の世界に縁ができて、禅宗五山第一位だった径山萬壽禅寺の復興計画に協力し、西湖畔の霊隠寺境内にある仏教大学でも講演を続けた。

日本に、千年を超えて流入し続けた中国文化は、すべて径山萬壽禅寺に端を発したと言われる。その源流に触れる、素晴らしい時間だった。

この6年間に、「山水」を発見した。山水とは東アジア特有の自然思想だ。中国という文化の根底には、常に、この「山水」が息づいている。道士などに端を発する自然思想は、禅宗によって「山水」という象徴的な一言に集約され、禅宗とともに、東アジア全域に伝播した。世界の支配者は山水であり、その本質と全体を一言で言い表した。

風水は山水から派生したのだったけれど、風水学は論じられているのに、山水学がない。宗教、哲学、美術、工芸、文学、建築・・・ありとあらゆるメディアで語られる山水を、総合する学問はまだない。私は、山水学創始を講演で語った。それは熱狂的に迎えられた。私が今 三十歳であったなら、きっと着手したに違いない。だが、今の私は思想を紡ぐことに全エネルギーを費やそうとしている。

 

北海道に移住して、3年は遊んでいた。

知人がいなかったので、紹介される人に会って歩いた。何をしよう、何をすれば良いか、考え続けた。地方では、コンスタントに税金が流れ込む自治体の存在が大きい。100%民間で生きてきた身分としては、当惑することばかりだった。だまされることも多々あったが、とにかく、この地域を見極めるために、出会うものはすべて引き受けて理解を深めた。

人と人の距離がかなりあるので、個性まるだしだ。バルザックの登場人物たちみたいだと、歓声をあげながら読み解いた。ラスティニャックみたいな大悪党はいないけれど、みんな、一癖も二癖もある。

 

十勝海岸湖沼群は、大樹町、幕別町忠類、豊頃町にまたがるラグーン群地域だ。丘陵が海になだれ込む起伏の多い地形で、湖沼が集合する。地元に、観光に関心がないおかげで、人工物が極端に少ない。美しい。自然度が高い。これを資源化して、社会事業を興そう・・・そんなことを考えている頃、湿原生態学者辻井達一氏に出会った。

北大教授を経て、北海道環境財団理事長を15年間務めていた。気が合って、会えばいつも談論風発に花が咲いた。構想を話したら「惜しみなく協力する」と。キリスト者だった。

ラムサール条約会議座長を務めていて、様々な功績でラムサール条約賞を受賞するというので、国際会議が開催されるルーマニアに、二人で旅をした。ホフマン・ラ・ロッシュ創業一族のホフマン氏も同席し、その後、カマルグ湿原の研究所にある自宅に招かれて滞在した。1ヶ月の間、辻井達一氏の話を聞き続けた。80年の人生は、汲めど尽きぬ泉だ。

 

2人で一般社団法人湿原研究所を設立して、辻井氏に4年間の代表理事を依頼した。その後は私が引き受けますから、と。

しかし、設立後1年を経ずに、辻井氏は急逝した。地元の実業家に後を継いでもらい、設立後4年を経た今年、予定通り、私が代表を引き受けた。湖水地方自然博物館設立に向かって、20181月から準備委員会を開始する。

 

牧場を始めたのは、2013年だ。社会事業を興すといっても、地域の協力がなければならない。このような過疎地では、理屈を言っても鼻もかけてもらえない。地域の経済に参加することが絶対条件だと考えた。

十勝海岸は、夏になると海霧が陸にあがり、気温が下がる。積算温度が不足するから穀物はほとんどできない。草しかできないから酪農地帯だと人は説明した。

「海霧は資源にならないか・・・」と聞いて歩いたら、海霧が海のミネラルを運ぶから草が栄養豊富になると教えてくれる人がいた。よくよく調べていくと、大西洋に面したノルマンジーのカマンベールが同じ条件で、チーズの熟成が深く、旨みが豊かだ。海岸の草を食った羊肉は、プレサレといって高値で取引される。

 

海岸草原のブラウンスイス、そして、湿原の地域性を発信するために湿原のイタリア水牛、2系統酪農という、新しく、難しいビジネスモデルになった。4年近く前にやってきた5頭のブラウンスイスに触ったのが、牛に触れる初めての体験だった。だから3年間は、地元の酪農家2代目に牧場の運営を荷ってもらった。手伝いながら、少しずつ理解して、今年から私が細部にわたるまで牧場を支配している。乳製品製造も同様だ

 

私の今の人生は、私の経験のすべてを精査して、この随想山水記「第四巻 自然万象」に記述することにある。手掛けていることすべてが、そのためにあると言えるだろう。子供のころから、私が知っていた事実。自然が世界を支配している規範と力だと考えてきた事々。そのことが、私に、周囲とのかすかな孤立感を感じさせてきたその事実を、思想として刻印すること。

自然博物館の中に、湖水地方牧場と、ロケット射場、係留気球事業を位置づけて、地域事業化、社会事業化を実現すること。そんな様々な仕事のすべてが、自然万象を書くためのプロローグにすぎないのだ。すでに第一楽章は書き始めた。今後、どれほどの時間を与えられるものか・・・

 

最後になるが、自然世界は時空を超え、奇跡も予言も自在に存在する。日本は、このままではアメリカが始める戦争に巻き込まれて滅亡してしまう。アメリカと手を切る決断が国民に求められる。その道筋も分かってはいるが、簡単ではない。誰もが胸に手を当てて、自然の詞に耳を傾けるべき時代だと申し上げたい。

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