Prepare for the Just War/正義の戦争に備えよ

2019.05.26
第四巻 自然万象

「Prepare for the Just War/正義の戦争に備えよ」・・・これは、1991116日、イブニングスタンダード紙/Evening Standardのヘッドラインに大きく踊った活字である。私は35歳で、ロンドンに暮らしていた。午後3時には夜のとばりがおりる憂鬱な冬の日々に、米英仏を軸に、湾岸戦争の準備が進んでいることは分かっていた。チェルシー地区の夕暮れの街角である。ニューススタンドに積み上げられた新聞にこの文言を見つけた時、私は思わず自分の目を疑った。英国で数百年の歴史を誇る、権威ある夕刊紙の「正義の戦争」という言葉に、深く動揺したのだ。

翌日、湾岸戦争は開戦し、空爆の映像がテレビを通して同時中継された。

日本のテレビ局スタッフは、受話器の向こうで、興奮を抑えきれない様子だった。「おい見てるか・・・? これこそ、テレビショーだ。数千億円の出費なんか安いものだよ」。

香港で活動している中国人舞台演出家は、「オレは無力感に襲われている」と、書きなぐったファックスを流してきた。

私自身は、湾岸戦争にどんな感情も持たなかった。よく理解できなかったのだ。しかし、「正義の戦争」という文言に当惑した内心の動揺は、それ以後、私の脳裏の一角を確かに支配し続けた。この文言に対する、強い違和感は、何だったのか・・・?

 

平和憲法下、戦後教育を受けてきた私たちは、「すべての戦争は悪である」と考えるようになった。平和主義が、明るい未来への希望に満ちた先進的な思想であると信じてきたのだ。「正義の戦争」、あるいは、「聖戦」などという言葉は、19458月をもって、地上から消えてなくなった筈だったのである。しかしそれは、戦後を生きてきた日本人の内心の物語であって、日本以外の世界では堂々と胸を張って生き続けている。試しに、「The Just War/正義の戦争」をインターネットで検索してみるとよい。中東で、南北アメリカで、欧州で、ロシアで、アフリカで、ありとあらゆる正義の士が、明日の戦争を準備しているのだから。

 

実質的には戦後の日本だって、米国を通して、世界の戦争に加担してきた。間接的ではあっても、多くの民の命を奪い、暮らしを破壊し、その国家経済から収奪してきたのだ。朝鮮戦争特需で戦後復興に勢いをつけ、日米同盟を締結している米国は、横須賀や沖縄からベトナムへ、あるいは中近東へ、爆撃機を発進させてきた。そして、今度は湾岸戦争の戦費として日本が多額の費用を負担したのだ。日本が潔白であるなどとは、口が裂けても言えない。

 

それでも、「すべての戦争が悪である」という思想は、私たちの血肉と化している。憲法9条改訂を主張する人々が、私たち日本人のこの矛盾を指して、「平和ボケ」と揶揄する。戦争放棄の憲法と同様に、世界政治の現実を見ようとしない、幼稚な思想だというのである。

それは、本当だろうか・・・?

 

私は、この「平和ボケ」という表現に触れるたびに、The Just War/正義の戦争という活字と、内心にこびりついた、あの当惑を思い起こす。紛れもなく、この当惑は、戦後、平和憲法が育てた心性である。日本を取り囲む、ロシア、中国、米国の世界戦略を、北朝鮮の動向を、正視しなければならないことは当然だ。その事態に対する一定の備えも、現実に必要だろう。だからと言って、大多数の日本国民がもっている「すべての戦争は悪である」という思想は、大きな矛盾なのだろうか・・・この思想を日本人に植え付け、育てた、憲法9条を改訂しなければならないという解は、正しいのだろうか・・・

 

日本がどれほどの軍拡をしたところで、米国、中国、ロシア、どの国に対しても、戦争をしたら勝てない。だから、世界最大の軍事大国である米国の同盟国として保身をはかる。全世界のすべての国々が結束して戦っても勝てないほどの、とてつもない武力を、米国は保持しているという。はっきりしていることは、この憲法があると、同盟国である米国が行う戦争に、現実的な戦力として参加しにくい。いざという時に、捨て石にされないためにも、米国の同盟国として相応の立場を築く必要がある。だから、9条を改訂して、戦争ができる憲法を確立する必要がある・・・そんな論法だ。

 

だが、米国が負けないという保証は、ない。

 

中曽根康弘元首相は、日本は不沈空母であると、レーガン元大統領に胸を張った。米国が極東戦略上の理由で、中国、北朝鮮、ロシアと戦争をする際には、日本が不沈空母として最前線に立つ、という意味だ。言い換えれば、米国に忠誠を誓った。米国との戦争において、中国、北朝鮮、ロシアが勝つ確率は、米国が勝つ確率よりも低い・・・要するに確率論に国民の命を懸けた。

岡崎久彦は、アングロサクソンは歴史上、比較的、同盟国を裏切らないという理由で、アングロサクソンとの軍事同盟を推奨した。しかし、よしんばアングロサクソンが裏切らなかったとしても、アングロサクソンが負ける戦争は、どうするのか。アングロサクソンが負けそうになったら、戦争の途中で寝返って勝馬に乗るのか。アングロサクソンが負ける戦争では、日本が真っ先に壊滅するシナリオについて、岡崎久彦は言及しなかった。

 

北朝鮮が積み重ねている戦略を凝視し、中東が米国に対して抱く強い怨念を知るにつれて、私たちは、米国の強大な武力の優位性を疑い始めている。「抑止力」という言葉の響きに魅力を感じている人々も多いが、米国の武力は抑止が目的なのではなく、自国の防衛と富の略奪を目的としている。戦争が公共工事なのだから、有権者の歓心を買うために、その武力は必ず発動する。しかも、今や、泣き寝入りする気はないと、北朝鮮もイランも訴えているのだ。ベトナム戦争の結末も忘れてはならない。要点は、必ず起こる武力衝突に対する対処だ。安倍晋三首相が懸命にトランプ大統領に取り入る姿に、不安を感じている国民は、決して少なくないはずだ。戦争になれば、強大な武力を持つ米国が勝つ確率が高いという確率論は、どうやら有効ではないな、と。

しかし、今、米国を裏切って離反し、米国の極東戦略を後退させるような振る舞いに出れば、日本は、赤子の手をひねるよりも簡単に、貧苦に喘ぐことになるだろう。ロシアが日本に軍事的な拠点を作り、太平洋における覇権に参加するリスクを考えたなら、米国が、その圧倒的な軍事力を駆使して、日本を占領することだって考えられる。少なくとも、GO WESTと称する西進運動が、独立王国であったハワイを略奪したように、かつて琉球王国であった沖縄を、極東覇権の要塞として占有しようとするだろう。

総合的に考えれば、日本は米国の軍事力に積極的に加担して、世界を支配する強者のグループの一員として生きることを考えるしか、他に道はないじゃないか。二度と第二次世界大戦の失敗の轍を踏まぬように、人智を尽くす・・・だいたいのところ、安倍政権は、こう考えている。

 

ここまでは「人智」である。

だが、私たちは知っている。日本の地理的な条件を考えた場合、武力衝突が起きれば、米国と組もうが、中国、ロシアと組もうが、私たちは常に最前線に位置し、危険に晒される、戦争に巻き込まれれば、日本は風前の灯火である。1945年に、日本国民は、それを悟っていた。その結果として、日本国民は、「道理」に活路を見出す選択をしたのである。それが、日本国憲法だ。武力による問題解決を放棄して、道理に賭けた。

 

人事を尽くして天命を待つとは、この世を生きる方程式である。

天命が、人智を超えた天の采配であって、抗うことのできぬ強大な力であることを、私たちは知っている。天命が依拠する規範は、自然の道理であり、自然の摂理である。自然社会では、悪と狂気は、長い時間のなかで淘汰される。自然支配の原則である。「すべての戦争は悪である」は、善に照らして、誤っているだろうか・・・ボケているのだろうか・・・?

否、である。

 

自国の繁栄を維持するために、他国を脅迫し、破壊し、殺戮し、略奪することを「正義の戦争」と称することは、善に照らして、受け入れられるだろうか・・・

否。

 

戦後、私たちが理解したのは、そのことである。憲法9条の選択によって、私たちは、天命に賭け放したのだった。その証拠として、日米安保闘争はあったが、日本国憲法に反対する国民的闘争はまったくなかった。日本国民は、この憲法を歓迎して受け入れたのだ。そして、憲法9条が育てた日本人の思想は、自然の規範に照らして、世界に優越している。私たちは、この優位性を堅持しなければならないのだ。

 

一人の人間に置き換えた場合、暴力と殺人は悪だが、やむをえぬ正当防衛は許される。正当防衛となる事態に備えて、ハンドバッグの中に護身用の道具を忍ばせることも可能だ。だが、暴力と殺人が悪であるという思想を退ける理由にはならない。「正義の暴力」も、「正義の殺人」もありえない。世間には、暴力衝動と、殺人衝動に駆りたてられた人物がいる可能性はあって、そんな人物に遭遇する事態に備える必要はあるかもしれないが、だからといって、思想として、「正義の暴力」も、「正義の殺人」も、成立はしない。

 

国家に立ち戻った場合でも、正当防衛が必要な事態もありうるから、最低限の自衛戦力としての自衛隊は許容した。確かに、世界から暴力と戦争を駆逐することは不可能に思える。だが、「正義の戦争などありえない」という思想は守り育て、自然の摂理の掌中にとどまる努力を怠るべきではない。「正義の戦争も、時と場合によっては許される」という思想に転向することは、自然の摂理を前にして、人として、国家として、堕落である。

 

大切なポイントは、自然の規範がこの世界を支配している事実を、信じられるかどうかにかかっている。自然の規範が、どんな武力をもってしても立ち向かえぬ、有無を言わせぬ強大な力であること、宇宙の星々をも動かす摂理であることを、悟りきれるか・・・

しかし、戦争は、善をも破壊するじゃないか、自然が悪を淘汰するのを待っている間に、日本が滅ぼされるのが関の山だと主張する人々の声は、大きくて強い。近代兵器の強大な武力は、善悪の彼岸である、と。

力の論理しか信じない人々は、文字通り「力づく」で、国民の平和憲法に対する信頼を、くつがえそうとしている。帝国主義者が、狡知と脅迫で、相手を意のままに操ろうとするように、日本国民の民意を誘導しようと、たゆまぬ働きかけを続けている。

20世紀初頭に、ドイツの哲学者は、神の死を宣告し、近代が善悪の彼岸にあることを著述したが、爾来、先進諸国はその文脈に沿って1世紀余りの歴史を積み上げてきた、日本だけがそこから免れることはできないのだ・・・と

本当に、そうか・・・?

否、天命を動かす自然の摂理は、善悪を峻別する。そして、自然の力は、すべての人間の力を凌駕する。周囲の暴力と狂気から身を守るために、私たち日本国民は、憲法9条を以て、この天命に賭けた。この道しかない、と。

 

米国の同盟国であろうが、先制攻撃が可能であろうが、戦争に巻き込まれれば、現代の強力な軍事状況下では、日本は、文字通り「壊滅的な被害」を免れない。リスクを減らすために人智を尽くすことは言うまでもないが、同時に、自然の摂理に対する立ち位置として、日本が世界のなかで飛びぬけて優位な立場にある現状を堅持すべきだ。「すべての戦争は悪である」との思想を根強く持つ戦後日本人の心は、自然の摂理にかなう。この思想は、憲法9条によって培われてきたのだ。戦後日本の、かけがえのない宝ものを投げ出すような愚は、夢にも、犯してはならない。

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