第七巻 中国行路

夢見る力の漲ぎる若者は、素朴な情熱と正義感で胸を膨らませて、東アジア文化圏を夢想します。それは戦後一貫して、高らかに謳い上げ続けた米国礼賛の大合唱に、暴力的なほど無惨にかき消されてきた夢でした。しかし、東アジア文化圏への夢想の正統性は、時代を越えて訴え続けられるべきです。古代より明治に至るまで、大半の日本文化の源泉であった中国。アヘン戦争に負けて没落した巨星。長征を生き延びて奇跡的な台頭を遂げた中国共産党の大地。21世紀初頭の世界を見渡して、おそらくこれほど眩ばゆい希望を胸に抱いて生きる人々は、他には存在しないでしょう。興味深い今現在の中国とその人々、文化の興亡、文明の光と影を、文物と大地と人を渉猟して、ここに記します。

竜安寺の石庭は径山寺の写し也

2017.09.18
第七巻 中国行路

 以下は、2013年11月12日に浙江省の径山萬壽禅寺にて開催された、大慧宗杲学会で行った講演を元に、論文集「大慧宗杲」に発表したものである。

 大慧宗杲(だいえそうこう)とは、生年1089年、1163年に没した禅僧で、径山萬壽禅寺の禅風を確立した、傑僧として知られている。

 論考の内容は、日本庭園史において、唯一独自なスタイルを持つとされてきた枯山水の、その中でも飛びぬけた傑作とされる龍安寺の石庭が、径山萬壽禅寺の写し、つまり、コピーであるという内容である。

 だからといって、枯山水庭園が日本独自であるという論が崩れるわけではない。現に、中国内外の禅宗寺院から、今でも、枯山水庭園設計の依頼が私宛に舞い込んで来る。日本独自の美意識の結晶であり、歴史的蓄積であることは言うまでもない。

 私はこの講演と前後して、径山萬壽禅寺から庭園計画、つまりは、径山萬壽禅寺復興計画の監修を依頼された。その3年間におよぶ作業を通して、径山萬壽禅寺に枯山水につながる庭園造形が存在した経緯について、論考を用意した。その論については、後日、ここに改めて書き記しておこうと考えている。

 

 

「竜安寺の石庭は径山寺の写し也」

 

Abstract

 Japanese stone garden "Karesansui" has been considered as an original style of traditional Japanese garden art. Especially the world famous Ryoanji temple stone garden has been described as the representative art style of Muromachi period by garden historians. But garden art book "Tsukiyamateizouden" which is considered to be written in the middle of Edo period described that "Ryoanji stone garden is a copy of Jingshan temple of China". Garden in front of Houjou building of Zen temple like Ryoanji stone garden was allowed to build by the Government from the beginning of Edo period. The biggest occasions of cultural influence from China at the beginning of Edo period was that very famous Chinese monk INGEN Ryuki (Yinyuan Longqi) was invited to Japan and INGEN Ryuki (Yinyuan Longqi) brought into Japan many Chinese monks, artists, technicians and many volumes of written materials. The conclusion of this thesis is that Ryoanji stone garden was created under the strong influence by Chinese Zen temple garden style especially by that of Wanshou Zen Temple of Jingshan in presumably 1655 through 1660.

 

Key words

 竜安寺Ryoanji 石庭stone garden 枯山水Dry Landscape 径山萬寿寺Wanshou Zen Temple of Jingshan 隠元隆琦INGEN Ryuki (Yinyuan Longqi) 龍渓性潜RYUKEI Shousen 築山山水伝Tsukiyamasansuiden

 

竜安寺の石庭

 

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1. 研究の目的と方法

(1)研究の目的

 10世紀の平安時代後期から、17世紀の江戸時代初頭まで、東アジア文化圏の中でも、日本文化は、圧倒的に中国からの輸入文化に影響を受けた。茶、建築、文学、美術、政治、宗教など多岐にわたるが、すべては禅宗とともに伝えられたため、そのほとんどが、多かれ少なかれ、中国禅宗五山第一位の地位にある径山萬寿寺の影響下にあったと言っても過言ではない。

 作家の司馬遼太郎は、鎌倉時代は彫刻の時代であり、室町時代は庭園の時代であったと語った。中国の影響が強い室町時代には、建築と同様に、庭園もまた中国の影響を受けたはずである。

 しかし、近代日本の庭園論において、石庭である枯山水だけは、日本独自の様式であると論じられてきた。庭園の時代と称される室町時代から、江戸時代前期にかけて、数多く作られた枯山水が、中国の影響を受けなかったということは、ありうるのだろうか。現在、数多くの研究が発表され、その議論は出尽くしたと言われているが、中国における石庭の歴史に関する研究をした痕跡がない。それは奇異ではないか。枯山水と呼んでいる庭園様式のすべてが日本独自のものであると結論づけてしまうことに対して、異議を申し立てたい、特に、世界的に有名な竜安寺の石庭は、中国禅宗五山第一位・径山萬寿寺にあった庭園に強い影響を受けて作られたものであることを明かすことが、本論の主旨である。

 

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(2)研究の方法

 江戸時代中期に書かれたとされる庭園書「築山山水伝」に、「りやうあんじ寺の庭に 白すなにかよふの石遣ひ有 唐のきんさんじのうつし也 是虎の子はたしと云作方也 平砂とも云」という記述がある。この記述を頼りにして、歴史的事実を元に、竜安寺方丈前に庭が作られた状況を繙いていく。

 

 

2. 既往の研究

 竜安寺石庭は、日本庭園史上もっとも美しい枯山水とされ、重森三玲、森蘊、伊藤ていじなどの高名な庭園史家が、室町時代を代表する枯山水であり、日本独自の庭園様式であると評してきた。

 また、その成立の過程も謎とされ、庭園史家をはじめとして、明石散人、大山平四郎、その他の著者が、さまざまな推論を展開した。

 近年、庭園研究家宮元健次は、庭園史家・福田和彦の著書を引用して、金地院崇伝が天下僧録司に就任した1619年以後、寺院制度を改革してはじめて、方丈前が儀式以外の目的に使えるようになったことを指摘した。竜安寺石庭は、江戸時代初期の作であるという論拠である。

 竜安寺石庭の年代については、中根金作もまた、その作風から見て江戸時代初期のものであろうと論じている。

 庭園史家・吉川需は、「築山山水伝」にある「りやうあんじ寺の庭に 白すなにかよふの石遣ひ有 唐のきんさんじのうつし也」という記述を紹介している。

 

 

3.「枯山水」という語

 石を立てるという行為は、宗教的な祭祀に関係する行為でもあり、人類の文化に普遍的に見られるものである。

 作庭に関する、日本における最古の文献である『作庭記』には、枯山水に関する記述があり、池もなく鑓水もない所に石を立てた庭園が枯山水である、としている。

 飛鳥時代、奈良時代、平安時代前期の庭園様式もまた、東アジア文化圏の中で、朝鮮半島と中国から強い影響を受けているが、「枯山水」という用語自体は、日本独自なものだと言っても良いだろう。

 

4.西芳寺の「枯山水」

 高名な作庭家でもある重森三玲は、著書『枯山水』の中で、日本の枯山水様式を、前期式と後期式に分けている。前期式は、前述の『作庭記』に記述された山裾に設えられた水のない石組を指し、後期式は、平地に作られた石庭を指している。前期式とは、主に『作庭記』に記された枯山水である。

 西芳寺庭園は、上段と下段の二つに分かれているが、上段の庭園は山の裾を利用していて、三段の枯滝を作っている。前期式枯山水の代表例だという。

 重森三玲は、

 

 「これらの石組は、明らかに大和絵風な手法が用いられていて、いかにも大和絵をそのまま見るがごとき景観として表現されている」

 

と書いている。

 美意識に、民族的な独自性が現れるのは当然だろう。しかし、禅宗史における日中交流の歴史を顧みると、この枯滝には別の要素を見出することができる。

 

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「径山悟禅」より ©径山萬寿寺

 

 ここにある写真は、現代の径山萬寿寺が作ったビデオから抜粋したものである。ここに座禅している僧侶が座している石組は枯滝であり、その石のそれぞれの上面が平になっていて、僧侶たちが座するように、石組みの当初から意図されている。宋代の径山萬寿寺で行われていたとされる、この座禅様式に、中国の禅寺を訪れた日本の僧侶は影響を受けたはずであるし、あるいは、渡来した中国人禅僧は、枯滝における座禅修行について教えただろう。

 

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西芳寺指東庵横にある座禅石

 

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指東庵の東側にある枯滝群

 

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最上段の枯滝

 

 西芳寺の指東庵と称された開山堂は、座禅修行の場として伝えられており、その近くに一石のみの座禅石の存在が言い伝えられている。

 しかし、この座禅堂から東に眺める枯滝の石組こそが、座禅修行の石組であると考えるのはごく自然なことである。鎌倉時代に、夢想疎石が作庭したとされる枯山水は、まさにその座禅のための石組であったと考えれば、説明がつく。石組の美意識が大和絵そのものであると評するのは良いとしても、この石組みの用途は、中国禅宗文化の影響下に作られた、枯滝状の座禅石群であるとの試論を提出したい。

 

 

5.竜安寺の石庭

 

 次に、本論の主題である、世界的に有名な竜安寺の石庭についてみてみよう。

 重森三玲は、竜安寺の石庭を、大仙院の石庭などと同様に、後期枯山水に分類し、作庭時期は室町時代であるとしている。

 

 庭園研究家・宮元健次は、著書『竜安寺石庭を推理する』の中で、庭園史家・福田和彦の著書を引用して、竜安寺の石庭が室町時代に作庭されたとする論を、歴史的事実を基に否定し、江戸時代前期の仕事であることを論じている。つまり、禅宗寺院の方丈は、住職の居室であり、方丈の前庭は白砂が敷き詰められ、信者が住職を拝礼するために使われる儀式の場であった。それは、金地院崇伝が1619年に天下僧録司という職に就き、禅宗寺院を統括して数々の改革を施すまで、厳格に続いた。方丈の前庭に、石組で庭園を作ることなど、考えられなかったのである。

 金地院崇伝は、その改革の中の一つとして、信者を住職と同じ位置に上げた。それまでは、政権を司る武士であっても、住職が檀上にいる方丈の前庭では、地面の上にへりくだることが規則であった。

 室町時代から安土桃山時代には、数々の宗教戦争が勃発したが、それは、国の権力を掌握しようとする武家に対する、宗教界の反抗であった。江戸時代に入り、徳川家康は宗教界の勢力を修めるために、方丈においては武家を床の上に上げ、僧侶の座る位置と同じ高さにして、武士の地位を高める方策を施した。

 その結果、方丈の前庭は儀礼の場から解放されて、装飾的な庭を作ることができるようになったのである。

 

 それは、室町時代に作庭されたことが歴史的に明らかな、大徳寺大仙院の枯山水を例にとれば明らかである。

 

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大仙院大書院前の枯山水 @大仙院

 

 大仙院の庭は、方丈の北東部にある大書院の前に、具象的な山水の石組を施しており、方丈の前庭は白砂を敷き詰めてあるだけである。現代では、枯山水の庭園の一部として、方丈前庭の白砂を大海と説明しているが、この一面の白砂は明らかに儀式の場としての白砂である。

 私たちが着目しなければならないのは、大仙院庭園を代表とする室町時代の枯山水は、文字通り、山水画の写しであるという点である。つまり、形を誇張し変容した象徴的な表現ではあるが、基本的には山水の具象的な表現なのである。

 ところが、竜安寺石庭は、突如として抽象的な表現に変化し、しかも、方丈の前庭に出現した。それは、現代美術のように大胆な抽象である。寺院という、因習と伝統にしばられた場において、大胆な表現の革命が、戦乱も大災害もなく安寧を誇る江戸時代前期の日本文化の中から、自然発生的に生まれたと考えるのは無理がある。それよりも、外部から何等かの刺激を受けたと考えるのが自然である。それも、新しいものに目くじらを立てる人々を説得できるだけの、権威を伴った刺激である。

 

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 大仙院国宝の方丈と、白砂の前庭 @大仙院

 

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築山山水伝より 人間文化研究機構 国文学研究資料館所蔵

 

 ここに、江戸時代中期に書かれたと伝承している『築山山水伝』と題した資料がある。

 『築山山水伝』には、こう書かれている。                                            

 

 「りやうあんじ寺の庭に 白すなにかよふの石遣ひ有 唐のきんさんじのうつし也 是虎の子はたしと云作方也 平砂とも云」

 

 江戸時代前期に、日本に流入した外国文化で、径山寺に関連があるのは、隠元隆琦(1592年~1673年)である。

 

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黄檗山萬福寺の隠元隆琦像

 

 隠元隆琦は、費隠通容(1593年~1661年)の弟子であり、費隠通容は径山萬寿寺の住持であった。

 隠元隆琦が、日本に住していた逸然性融(1601年~1668年)の招きに応じて来日したのは、1654年。当初は長崎に滞在したが、1655年から大阪の摂津に移り、妙心寺派の普門寺に足掛け6年間滞在して、費隠通容が編纂した『五灯厳統』を重刻した。『五灯厳統』は、その時代の日本の禅宗僧侶がこぞって読んだとされ、大きな影響力を持った。

 

 隠元隆琦が逗留した普門寺の住職に、龍渓性潜(1602年~1670年)という僧侶がいる。

 龍渓性潜は、竜安寺の伯蒲慧稜に参禅して龍渓宗潜と名を改め、伯蒲から印可を受けた。竜安寺は、妙心寺の末寺である。龍渓性潜は伯蒲の没後、竜安寺の塔頭である皐東庵を自坊とし、以後、京都妙心寺の首座となった。

 龍渓性潜は、沈滞した禅宗界を刷新することをめざし、隠元隆琦を妙心寺に招聘するために必死の運動をしたが、長老たちの強い反対に会って実現しなかった。その結果、1660年、隠元隆琦を開山とする黄檗山万福寺を建立し、みずから、隠元隆琦の弟子となって、龍渓性潜と名を改めたのである。

 

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黄檗山萬福寺

 

 隠元隆琦は、明末清初の激動する中国から、多くの弟子と文物を従えて、日本にやってきた。

 ここに、竜安寺方丈の前庭に、かつて日本に存在しなかった、斬新な様式の庭園を作らせる、庭園様式上革命的な発想と、その構想の実現を可能にする権威が存在する。

 龍渓性潜は、隠元隆琦の禅僧としての存在の偉大さに大きな期待を持ち、奔走し、隠元隆琦に心酔して弟子となった。その過程で、龍渓性潜が大きな支配力を持っていた竜安寺の、儀礼の場としての役割を終えて空白となった方丈前庭に、隠元隆琦とその一行が中国からもたらした、最新の情報と知識を注ぎ込んで、斬新な石庭を作らせたと考えるのが自然ではないだろうか。

 それはおそらく、隠元隆琦が来日して、長崎から大阪にやってきた1655年以後、黄檗山万福寺を建立する1660年までの5年間のことであっただろうと推察される。それも、その5年間の早い時期のことであろう。萬福寺建立が決まった以後、龍渓性潜はおのずから妙心寺派から離脱し、それは、竜安寺への影響力も失ったことを意味するからである。

 

 『築山山水伝』に書き込まれた、「竜安寺の石庭は径山寺の写し也」と語る文言の背景は、ここにあるのではないか。世界的に名高い竜安寺枯山水の源流は、径山萬寿寺にあるとの背景をこのように推論して本論を終わる。

 

 径山萬寿寺を含む中国の禅宗寺院における石庭は、客殿の前庭を飾ったものであったと推察されるが、そういった調査も含めて、今後、径山萬寿寺、および、浙江工商大学との共同研究を通して、研究を深めたい所存である。   以上

 

 

 

■参考資料

『築山山水伝』国文学研究資料館所蔵

吉川需:『日本の美術61「枯山水の庭」』 至文堂 1971.6.15

河原武敏:『名園の見どころ-日本庭園160を解説-』 東京農業大学出版会 1983.8.1 186

明石散人:『竜安寺石庭の謎』 講談社 1996.6.15 

重森完途:『日本庭園の美』 井上書店 1969.4.20

宮元健次:『竜安寺石庭を推理する』 集英社 2001.8.22

大山平四郎:『竜安寺石庭 七つの謎を解く』  淡交社 1996.3.28

重森三玲:『枯山水』 中央公論社 2008.11.10 134

明石散人・佐々木幹雄:『宇宙の庭 竜安寺石庭の謎』 講談社 1992.2.25

森蘊:『日本の庭園』 創元社 1957.6.15

福田和彦:『枯山水の庭』 鹿島研究所出版会 1967.12.20

伊藤ていじ:『枯山水』 淡交社 1670.1.31

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