自然の詞・自然の規範

2018.01.09
序 はじめに

私は、2009年、53歳の時に、北海道の道東海岸に移住、太平洋に面した高台に暮らして、湖水地方牧場を経営し、海岸草原のブラウンスイスと、湿原のイタリア水牛の2系統酪農を行い、チーズやヨーグルトの乳製品を製造・出荷している。一方で、社団法人湿原研究所の代表理事を務め、地域の3自治体、ロケット事業企業等と連携して、自然博物館設立準備中だ。かつてなく、充実した日々を送っている。

 

しばしば、ここに至る経緯を、尋ねられる。だから、その経緯をか聞き記して、随想山水記の「序」とさせていただきたい。

 

最初に触れなければならないのは、35歳の時に、鎌倉材木座の富士和教会で神の使者を知ったことだ。こう書くと、大病や貧苦の不幸に出会って、新興宗教にはまったのだろうと考えるかもしれない。だが、そうではない。

私は20代にドキュメンタリストとして内外の取材に明け暮れたころ、新興宗教の取材をしたことがあるが、冨士和教会とはそうしたものではない。本業の都市計画家として、昨年まで、中国禅宗第一位の径山萬壽寺復興計画に、監修者として従事して、旧来の宗教にも比較的深く触れてきたが、それも違う。

「胸に手を当ててよく考えてみなさい」とは、子供を諭す時に親が言う言葉。内心の話だが、私は子供のころ、いつも胸に問いかけて様々な言葉を見つけた。そこで得た言葉が、世界を支配している原則であることを知っていたのだが、自我が発達する思春期には、その言葉を探し当てることができなくなった。

「小さいころは神様がいて」とは歌の文句だけれど、本当にそうだと思いながら、それ以後もいつも、世界を支配しているはずの言葉の出自を探していた。万巻の書に触れ、博物館美術館劇場に足を運び、旅に明け暮れ、できるだけ多くの人に会い続けた。しかし、その言葉は見いだせなかった。富士和教会は、ようやく探し当てた、その答えだったのだ。

 

神の使者は、神の詞を伝えていた。そして、変節を積み重ねた人の思考が、頑固な自我でがんじがらめになっている、その心を、自然な道理の世界に導きだす指導をする。人がそれを求めて、謙虚な心を取り戻すことが絶対条件だが、そんな指導ができる人は、おそらく、人類史上存在しなかっただろう。私は大いに感服してご指導を受けた。広く社会を知り、しかし、まだ自己が固まりきってはいない30代半ばの体験として、それは、格別に素晴らしい。本当に恵まれていたと思う。私の今の人生は、すべて、そこから始まったのだ。

 

私は、慶應義塾の経済を出て最初に、縁があって映画「戦場のメリークリスマス」の美術担当ラインプロデューサーの仕事についた。それは、人が生きる物語の舞台を作る、視覚的にはその風景を作る仕事だ。

フジテレビバラエティの放送作家など、20代にはいろいろな仕事を引き受けて遊んだけれど、のちに、ドキュメンタリストとしてアメリカの会社から「日本の肖像」という4時間ドキュメンタリー演出の依頼を受けて、2年間を費やした。アトランタで行った試写では、会社の担当者として全権を握るエグゼキュティヴプロデューサーが、「日本はお巡りさんが子供たちとお遊戯をして遊ぶ国だ。そんなエピソードを追加しろ」と、無理難題を押し付けて来た。どんな努力を費やしても、くつがえせなかった。万事休す、である。若者に年収4千万円を出すビジネスの内情はこんなものだった。

 

「戦場のメリークリスマス」、「ラストエンペラー」などをプロデュースした英国人のジェレミー・トーマスは、私と年齢もあまり変わらない若者で、ハリウッドのベル・エアーでお茶を飲みながら愚痴をこぼした。すると、「ユリーカ」という映画をハリウッドと共同製作した時に、同じことがあったと話してくれた。アメリカ人プロデューサーの注文を、監督のニコラス・ローグが受け入れられず、編集権を握るハリウッドがずたずたに改変した。ニコラス・ローグはその後、映画を作れなくなってしまった。編集権は人格権なのだ。アメリカはいつもこんな感じだ、と。アメリカは散々だった。

 

ちょうどノーベル賞を受賞して脚光を浴びているイシグロカズオ原作「浮世の画家」を、監督として映画化しないかという誘いに乗って、英国に移り住んだ。「日本の肖像」は完成して全米に放映されたが、私は見られなかった。アメリカに住む心ある人々は私を慰めたけれど、心無い人々は「とても素晴らしい作品だ」とお追従を言った。

 

ロンドンでは、早朝から脚本を書き始めて、疲れ果てる午後には、町に出て遊んだ。ニューヨークやハリウッドのホテルに滞在して、ビジネスミーティングに明け暮れる日々のたかぶった気持が、見る間に色あせていった。アメリカの日々は闘いだったが、ロンドンには「暮らし」があった。傷みつけられた心身が癒されていく。近所にあるスタジアムで、サッカーのある晩は決まって、チェルシーの応援歌が夜空に響き渡った。試合終了後の横町のパブでは、猛り狂ったフーリガンたちが、ビールで興奮を冷やした。

 

アメリカの仕事は小金を残したから、家内の白井温紀は、英国で一番授業料の高いカレッジを選んで、ガーデンデザインを学んだ。白井温紀は、90年代から21世紀初頭のガーデニングブームに乗り、NHKの番組の常連出演者として20年くらいはその仕事を楽しんだのだった。

 

英国では、少々規模が大きな開発計画は、ランドスケープ・アーキテクトがグランドデザインをつかさどり、インテリアデザイナー、建築デザイナー、ガーデンデザイナーなど、様々なデザイナーを指名して細部の設計を分担する。建築は、近代そのものだ。工学と美学の語法で、世界のすべての課題に立ち向かう。膨大なお金が動くから脚光を浴びる。フランシス・ベーコンは、人間が自然を支配するのだと書いた。西洋で困惑したのは、人が自然を支配していると、誰もが信じて疑わないことだ。その思想が、西洋近代を爆発的に進歩させた言動力だった。しかし、私の内心の言葉によれば、この世を支配しているのは自然の力だった。フランスの新哲学派の若者たちが、ノイローゼになりながら、ロゴス中心主義に回し蹴りを ! と語っていたことを、いつも思い出した。ランドスケープ・アーキテクトとして、自然と人間を取り持つ仕事ができるのではないか・・・。ロンドンでは、そんなことを、ふわふわと考えていた。

 

そんな日々の中で、あの内心の言葉がよみがえった。

内省が始まった。一生、英国で暮らそうかと考えていたのに、無性に日本に帰りたくなった。

脚本が完成するや、急いで日本に帰ると、幼馴染が、私が会うべき人が鎌倉にいると言う。案内を乞うてお目にかかったのが、富士和教会の神の使者だ。その方は、私が探し求めてきた内心の言葉を語っていた。1年半の間、週に何度も訪ねて確かめたが、どこからどう見ても本物だった。

大学の恩師が言った。「神が実在するのは、当たり前のことだ。誰が間に立つか、それが人類最大の設問なのだが、本物だと思える人物に出会ったということは、大変なことだ。ついて行くべきだ。」

 

問いかけと傾聴と内省の日々が始まった。鏡の前のガマガエルか、はたまた、標本箱に虫ピンでとめられた昆虫を観察するように、内心の隅々を観察し、身についた考え方の立て直しをさせていただいた。その過程で、「自然が神です」という神の詞を知った。ビンゴだ。そうか、やはりそうだったのだ・・・自然が世界を支配している。

 

今が何時か分からない、いつ夜が明けて日が暮れたのか分からないような、サウンドステージや編集室から逃れて、ランドスケープの仕事に軸足を移すのは当然の流れだった。

妻の実父が、大学で造園学を講じていた。軽井沢の万平ホテルに長逗留して、義父から個人授業を受けた。林の道を歩き、お茶をいただき、食卓を囲みながら、「頭の中のすべてを君に話す」との言葉通りに、果てしない講義を受けた。学究の勉学はそれで充分だった。庭園都市計画事務所がゆっくりと動き出した。

 

40代になると仕事は山のようにあった。学校を出て最初についた「人が生きる物語の風景を作る仕事」を、スクリーンの中ではなく、現実の世の中でつかさどる。

建築士の資格はとったけれど、工学の言語だけで世界を構築する思想だけでは、みずからの仕事にならない。自然生態学に軸足をおいた都市計画、庭園都市計画と銘打って仕事を請けた。

植物生態学者宮脇昭先生が、「白井さんの仕事ならどこにでも行く」と言って下さって、森を作りながら、風景造形を模索した。

共同講演会があって、私が前座を務めた。「私は、トラクタで畑を起こすと、その瞬間から数百年後の自然植生林復活に向けて、大地の修復が開始されるのを感じる。地上の出来事は、すべて、その大きな力の上で起きていることではないか。狂気や悪は、長い時間の中で淘汰されるが、同じ力の働きなのではないか・・・」と述べた。

帰りの車中で宮脇先生は、「本当だ、まったくその通りだ・・・」と、深いため息をつかれた。

生態学は科学ではないと言われることがある。生態学を科学化する努力に没頭している研究者もあるが、たどり着く先は言説、つまり、言葉である。生態学は科学的な研究を積み重ねて、思想にたどり着く。

 

40代は、身体の芯がいつも熱を発しているくらい、夢中に仕事に没頭し、経験の引き出しを増やした。理解したことは、美しい風景を作る仕事の基本は、マネジメントにある、ということだ。

スクラップ・アンド・ビルドという概念があるが、竣工した瞬間から劣化が始まるデザインと施工、金がふんだんに動くその仕事ではなく、生き続ける思想の上に代謝を続けるマネジメントこそが、本物の風景を作る。

設計、あるいは、都市計画家という立場は、このマネジメントを司る人々から、思想を形にする協力者としての仕事を請ける。マネジメント思想の実力が8割。私にできることは2割だ。

施主の思想を読解し、デザインの言語に置き換えて構成する。それは、施主の実力の範囲内の仕事に終始する。商業施設、住宅団地、寺院計画、イベント、日本庭園、リゾート計画・・・いつも不満だった。マネジメントの思想構築に参画できないからだ。知識と技術を提供するだけのコンサルタントは、生涯の仕事とは言えなかった。私は思想を練り上げたかったのだ。請負の仕事も、宮仕えも、思想的な自由はなかった。思想を紡ぐためには、自立した存在にならなければならない。伊勢の小児科医だった本居宣長は、自著出版のために、竹筒貯金をしながら思想を紡いだ。八戸の安藤昌益もまた、町医者として自立していた。

 

このままでは詰まらないと考え始めた40代後半に、神の使者が、「50歳を境に生き方を変えなさいよ」と、ぽつりとおっしゃった。そのころ縁があったのが、北海道の道東だ。考え方を変えると生き方が変わる、生き方が変わると運命が変わる・・・とは、使者の言葉だ。生き方を変えて、運命を変えて、人生の後半生にどんな果実を求めるのか。

50歳を過ぎたころに、請けていた大規模な仕事が4件、立て続けに竣工した。次の仕事を請けたら、竣工は60歳に近くなる。家内と相談して、事務所を片付け、決心して二人で道東への移住を決めた。国の内外、さまざまな土地に住んだが、住民票と本籍は53年間、大船にあった。これを動かしてみよう。道東で、自然を主題にして、社会事業を興したいと、漠然と思った・・・

 

中国浙江省の大学に、客員研究員として席を置いたのもこのころからだ。6年間在籍して、定期的に出かけていき、大学院でランドスケープについて講義をした。そこから、臨済禅の世界に縁ができて、禅宗五山第一位だった径山萬壽禅寺の復興計画に協力し、西湖畔の霊隠寺境内にある仏教大学でも講演を続けた。

日本に、千年を超えて流入し続けた中国文化は、すべて径山萬壽禅寺に端を発したと言われる。その源流に触れる、素晴らしい時間だった。

この6年間に、「山水」を発見した。山水とは東アジア特有の自然思想だ。中国という文化の根底には、常に、この「山水」が息づいている。道士などに端を発する自然思想は、禅宗によって「山水」という象徴的な一言に集約され、禅宗とともに、東アジア全域に伝播した。世界の支配者は山水であり、その本質と全体を一言で言い表した。

風水は山水から派生したのだったけれど、風水学は論じられているのに、山水学がない。宗教、哲学、美術、工芸、文学、建築・・・ありとあらゆるメディアで語られる山水を、総合する学問はまだない。私は、山水学創始を講演で語った。それは熱狂的に迎えられた。私が今 三十歳であったなら、きっと着手したに違いない。だが、今の私は思想を紡ぐことに全エネルギーを費やそうとしている。

 

北海道に移住して、3年は遊んでいた。

知人がいなかったので、紹介される人に会って歩いた。何をしよう、何をすれば良いか、考え続けた。地方では、コンスタントに税金が流れ込む自治体の存在が大きい。100%民間で生きてきた身分としては、当惑することばかりだった。だまされることも多々あったが、とにかく、この地域を見極めるために、出会うものはすべて引き受けて理解を深めた。

人と人の距離がかなりあるので、個性まるだしだ。バルザックの登場人物たちみたいだと、歓声をあげながら読み解いた。ラスティニャックみたいな大悪党はいないけれど、みんな、一癖も二癖もある。

 

十勝海岸湖沼群は、大樹町、幕別町忠類、豊頃町にまたがるラグーン群地域だ。丘陵が海になだれ込む起伏の多い地形で、湖沼が集合する。地元に、観光に関心がないおかげで、人工物が極端に少ない。美しい。自然度が高い。これを資源化して、社会事業を興そう・・・そんなことを考えている頃、湿原生態学者辻井達一氏に出会った。

北大教授を経て、北海道環境財団理事長を15年間務めていた。気が合って、会えばいつも談論風発に花が咲いた。構想を話したら「惜しみなく協力する」と。キリスト者だった。

ラムサール条約会議座長を務めていて、様々な功績でラムサール条約賞を受賞するというので、国際会議が開催されるルーマニアに、二人で旅をした。ホフマン・ラ・ロッシュ創業一族のホフマン氏も同席し、その後、カマルグ湿原の研究所にある自宅に招かれて滞在した。1ヶ月の間、辻井達一氏の話を聞き続けた。80年の人生は、汲めど尽きぬ泉だ。

 

2人で一般社団法人湿原研究所を設立して、辻井氏に4年間の代表理事を依頼した。その後は私が引き受けますから、と。

しかし、設立後1年を経ずに、辻井氏は急逝した。地元の実業家に後を継いでもらい、設立後4年を経た今年、予定通り、私が代表を引き受けた。湖水地方自然博物館設立に向かって、20181月から準備委員会を開始する。

 

牧場を始めたのは、2013年だ。社会事業を興すといっても、地域の協力がなければならない。このような過疎地では、理屈を言っても鼻もかけてもらえない。地域の経済に参加することが絶対条件だと考えた。

十勝海岸は、夏になると海霧が陸にあがり、気温が下がる。積算温度が不足するから穀物はほとんどできない。草しかできないから酪農地帯だと人は説明した。

「海霧は資源にならないか・・・」と聞いて歩いたら、海霧が海のミネラルを運ぶから草が栄養豊富になると教えてくれる人がいた。よくよく調べていくと、大西洋に面したノルマンジーのカマンベールが同じ条件で、チーズの熟成が深く、旨みが豊かだ。海岸の草を食った羊肉は、プレサレといって高値で取引される。

 

海岸草原のブラウンスイス、そして、湿原の地域性を発信するために湿原のイタリア水牛、2系統酪農という、新しく、難しいビジネスモデルになった。4年近く前にやってきた5頭のブラウンスイスに触ったのが、牛に触れる初めての体験だった。だから3年間は、地元の酪農家2代目に牧場の運営を荷ってもらった。手伝いながら、少しずつ理解して、今年から私が細部にわたるまで牧場を支配している。乳製品製造も同様だ

 

私の今の人生は、私の経験のすべてを精査して、この随想山水記「第四巻 自然万象」に記述することにある。手掛けていることすべてが、そのためにあると言えるだろう。子供のころから、私が知っていた事実。自然が世界を支配している規範と力だと考えてきた事々。そのことが、私に、周囲とのかすかな孤立感を感じさせてきたその事実を、思想として刻印すること。

自然博物館の中に、湖水地方牧場と、ロケット射場、係留気球事業を位置づけて、地域事業化、社会事業化を実現すること。そんな様々な仕事のすべてが、自然万象を書くためのプロローグにすぎないのだ。すでに第一楽章は書き始めた。今後、どれほどの時間を与えられるものか・・・

 

最後になるが、自然世界は時空を超え、奇跡も予言も自在に存在する。日本は、このままではアメリカが始める戦争に巻き込まれて滅亡してしまう。アメリカと手を切る決断が国民に求められる。その道筋も分かってはいるが、簡単ではない。誰もが胸に手を当てて、自然の詞に耳を傾けるべき時代だと申し上げたい。

■経緯と目的

湖水地方自然博物館構想は、一般社団法人湿原研究所設立(201242)当初からの懸案で、大樹町、幕別町、豊頃町の十勝海岸地域に広がる湖沼群地域の研究、自然と歴史遺産等の保全活動、および、賢明な活用/ワイズユースの実現に、主導的な役割を果たす。

同時に、自然博物館は、湖水地方を訪れる訪問者のためのビジターセンター/エコロジーリゾートの機能を果たし、地域全体の総合的な情報の発信基地として、湖水地方観光の重要な拠点となる。

NGO(非政府組織)と、新しい公共

NGOは、近年、目立って、世界中の国々で活発な活動を行っている。

その存在は「新しい公共」と規定され、既存の民間企業、および、従来の行政が対応できない、社会的、かつ、公共的な課題を、社会事業化して解決をめざす。

一般社団法人湿原研究所の主旨は、民間企業、行政とならぶ、第3極としての活動を行うことで、NGOとしての社会的地位を確立し、民間企業、および、行政と連携しながら、その成果として、地域社会の福祉向上と、日本社会、ひいては、人間社会の進化に、積極的に貢献することを目的としている。

湖水地方自然博物館は、そのための重要な事業である。

■定期的な説明会と意見交換会の開催

平成301月から約2年間を設立準備期間として、一般社団法人湿原研究所が主催し、大樹町、幕別町、豊頃町の各教育委員会、晩成温泉等々地元の関係者を交えて、定期的に、説明会、および、意見交換会を開催し、関係各所の意向を調整しながら、当該地域の広い意味での福祉向上を実現する、自然博物館の設立をめざす。

並行して、北海道大学総合博物館との連携協定を進める。準備期間中は、高橋英樹北大博物館特任教授を相談役とする。

一方で、文部科学省所管の登録博物館としての要件を整え、登録をめざす。

■湖水地方博物館の使命 

1.湖水地方の自然環境保全

 一般社団法人湿原研究所創始者のひとりで、初代代表理事を務めた故辻井達一元北海道大学教授は、長年、北海道環境財団理事長を務め、環境省のラムサール条約会議座長であった。辻井達一先生は、ラムサール条約登録を目標にして、湖水地方の全容を調査研究することを目指した。湿原研究所はこれまで、タイキ・フローラ活動を軸にして、植物採集と学術標本製作を進めて来た。優れた保全とワイズユースを実現するために、今後、自然はもとより、考古学の観点から擦文遺跡群の全容解明、地理学、社会、歴史、その他、全体的な観点から、地域の調査、情報の整理、博物館の本来機能である「地域の誇りの蓄積」の実現をめざす。

2.自然観光の拠点作り

湖水地方は、過疎地であるが、ロケット事業等の興隆により、耳目を集めている。ロケット発射時に短期間に多くの人々が集まる際に、マナーとしてのルール作りも必要になる。

また、地域発展のために、年間を通じて交流人口を確保する戦略として、自然観光が重要な役割を果たす。自然博物館は、地域全体の詳細を把握し、資源化し、その活用と保全のための方策を立案、具現化をめざす。

地元の晩成温泉等の既存施設と連携し、相乗効果を生み出し、地域発展の原動力となるべく、機能を果たす。

湿原研究所は、湖水地方の自然観察と研究のために、数年前より、係留型気球の事業化を準備してきた。湿原の不思議な魅力に満ちた自然世界を理解するためには、写真、あるいは、動画では足りない。人が実際に、上空から観察する視点がもっとも魅力的だ。平成27年度には、メットライフ生命保険の協力を得て、飛行船の可能性を試したが、コストが合わなかった。気球は風に流されるために、海に流れた場合は回収が難しくなる。結果として、係留型気球の基地を作り、数百メートル上空に浮遊して観察と研究を行い、同時に、訪問者のための自然観光に活用するべく、準備を積み重ねてきた。

賢明な活用/ワイズユースとは、ラムサール条約会議が提唱する理念で、自然保護か開発か、という二者択一の対立軸ではなく、知恵を絞って、自然と人間が共存共栄するシナリオを開発することを意味する。湖水地方では、近代工学の英知を結集したロケット事業が誕生しつつあり、ロケット射場と自然環境の共存が大きな課題となっている。湿原研究所は、ロケット事業が登場して以来、係留型気球基地を、ロケット射場と共用することは可能だと考えてきた。自然博物館関連施設の中に、十分な計画を立案することで、世界でもっとも自然と協調する気球係留基地/ロケット射場計画ができるはずだ。立地も含めて、慎重に対処したい。

ワイズユースとしての自然観光事業は「山水別荘」と命名された。山水とは、自然世界を象徴する、東アジア特有の語彙であり、先進諸国に見られるエコロジーリゾートの、東アジア版である。自然博物館は、晩成温泉等と連携して、広い意味での自然教育等を求める人々のためにサービスを提供し、一方では、湖水地方牧場と連携して、長期滞在型高級リゾートの流れの中に、独自の地位を占めたいと考える。

3.自然と、地域産業である畜産酪農の共存

湿原研究所は、畜産農家に対する排水基準規制強化が進む時代を背景に、地元の湖水地方牧場と連携して、酪農廃棄物と自然環境の共存を実現するモデル構築を模索してきた。

湖水地方は流域の小さな河川の集合であるため、十勝川や歴舟川など水量の大きな川の流域に比べて、排水等による汚染は、即座に顕在化する。その環境において、畜産による環境汚染対策に、現実的かつ的確な解を提案することをめざす。

湖水地方牧場は、平成26年より、海岸草原のブラウンスイス、湿原のイタリア水牛、以上の2系統酪農に取り組み、湖水地方を象徴する特産品製造を行い、地域の発展に寄与してきた。昨年12月には、「家畜にやさしい動物福祉」第一回認定牧場となり、未来型の酪農を行う、十勝を代表する牧場に成長した。

自然博物館設立を機に、湖水地方牧場は新しい土地で、健全な酪農経営のシステムを構築し、発信力のある観光牧場をめざすことになる。自然博物館は、その自然環境経営を監修し、湿原と畜産の共存モデル構築をめざす。

自然主義リゾート「山水別荘」は、自然博物館と、その関連施設である湖水地方牧場を中核施設とし、来訪客は、生物多様性に満ちた森、あるいは、生きて働く牧場に滞在し、空中に遊泳して湖沼群を、屹立するロケットの周囲に草を食む牛と水牛の群を、夕暮れ時には、西に日高山脈のシルエットを、眺めることになる。

■立地

これらの構想を実現する立地は、海岸に近く、湿原と湖水地方牧場に隣接し、ビジターセンターとしてのアクセスと、気球/ロケット基地を内包することを可能にする条件が必要になる。湿原研究所では、複数の候補地を絞り込み、取得、あるいは、利用の可能性を検討中である。

■スケジュール

自然博物館計画は、平成301月から説明会を含む準備作業を開始。今後約2年間の準備期間中に、用地の取得と基本的施設建設を終え、平成32年春の開館を目指している。2018.1.9

海岸草原のブラウンスイス

2017.11.18
第一巻 湖水地方レポート

この概念のミルクは、世界で唯一だろう。

 

「ミルクの概念」・・・という表現は、分かりにくいかもしれない。食品だから、原材料の実力が70%から80%だ。ミルクと一言で言っても、水牛乳と牛乳は当然違う。しかし、牛乳だって、どんな目的でどんな環境を用意するかで、その質はまったく違うものになる。

 

ホルスタイン種は、飲料乳生産を目的として改良された牛だ。だから、特に、乳量最大化を目的とした舎飼いのホルスタイン乳は、一般的には、チーズには向かない。飲料用に大量生産する個体が良しさとれて、選抜されてきたのだ。放牧されているホルスタインの乳は、清浄でさわやかなものがあるけれど。

 

ブラウンスイスは、その乳質がチーズ製造に向いているとされる。名前の通りに、スイスの高山域を出自とするために、足腰も強く、搾乳所まで片道1kmや2kmは、何の苦も無く歩く。山を出自とするチーズ用品種のブラウンスイスを、海岸草原で育てて、そのミルクをチーズ製造に使うという概念が、湖水地方牧場の「海岸草原のブラウンスイス」だ。

 

海岸草原とは、文字通り海沿いにある草原で、強風や潮風、乾燥、砂の移動といった、特徴的な環境にある。本州では、海岸草原といってもピンと来ないはずだ。海浜の際まで住宅が立ち並んでいるのが常だからだ。

湖水地方の魅力は、湖沼群の素晴らしさもさることながら、この海岸草原が生きている点にある。人工物のまったくない広大な風景の中に、草を食むブラウンスイスを眺めると、その豊かさに深くため息をつく。

 

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湖水地方は、夏になると海に寒流が北から下がってきて、海上の大気を一気に冷やし、大気中の水分を霧に変える。海の温度が下がるから、相対的に陸の温度は上がるために、その上昇気流に引き寄せられて、海上の霧が上陸することになる。

作物の成果は、芽生えから収穫までの温度の総和、つまり、積算温度が重要なカギを握る。だから、湖水地方は草しかできない不毛の地とされた。ここに暮らす人々は、牧畜しか選択肢がなかったのだ。海霧はマイナスのイメージだった。

私は、湖沼群の風景に資源力を見たのだが、湖水地方に参加したいと考えた際に、「海霧は資源にならないのか」と、手あたり次第聞いて歩いてみた。すると、「海霧は陸に海のミネラルを運ぶ。ミヤコザサをはじめとして、植物の栄養価は高い。だから、戦前は軍馬の育成地だったのだ」と教えてくれる人がいた。

 

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湖水地方と同じ道東だが、はるか北に位置する根釧原野も、同じ環境にある。浜中農協の元参事が話してくれた。「近代化という点で遅れをとっていたから、釧路に出るとバカにされてバカにされて、泣きながら帰ったことがある」。コストのかからない、放牧に活路を見出した。ひたすら努力の末に、アイスクリームのハーゲンダッツが、原料乳として買い求めた。今では、生産する乳を全量、ハーゲンダッツに出荷している。浜中農協の組合長が言う。「科学的には証明できないと言うが、この土地の草は栄養価が高い、だから、豊かなミルクができる。海霧のおかげだ」

 

フランスのノルマンジー海岸が、同じ条件だ。海霧が海のミネラルを運ぶ。だからこそ、カマンベール村のチーズは、熟成した風味の豊かさで世界的に有名になった。同じノルマンジー海岸で、プレサレと呼ばれる羊肉も海のミネラルだ。漬物の発酵に海塩がモノを言うように、「熟成」に、大きな役割を果たす。

 

イタリア料理関係者が、ときどき、「イタリアでは、水牛モッツァレラチーズの方が、格が上だ」と言う。それは、ホルスタインの舎飼いミルクで作るチーズと比較した場合のことだ。イタリアには、「海岸草原のブラウンスイス」という概念の原料乳は、ない。彼らには想像できない、評価も難しいだろう。

レストランやチーズショップにしてみれば、「湿原のイタリア水牛」の方が売りやすい。だが、本物のテロワールを表現するのは、「海岸草原のブラウンスイス」だ。植物生態学上、湖水地方の海岸草原は独特で、高山植物のガンコウランが海岸段丘上にカーペット状に繁茂しているのは、北海道の中でも、知床と湖水地方だけだ。エゾカンゾウ、ツルコケモモ、その他、特徴的な草花は枚挙にいとまがない。400種を超える植物が生い茂る湖水地方の海岸草原は、生物多様性の点で秀でている。その植物を、芽生え直後の最も生命力旺盛な時期にムシャムシャ食べてしまうブラウンスイスのミルクが、芳醇でないわけがない。湖水地方の海岸草原を、いかにして表現するか・・・

 

消費者に説明し、その真意が浸透するまでには、長い時間と道のりを必要とするだろう。本物とは、そのようにして社会に登場し、定着したとたん、元々そこにあったもののように、当たり前に受け止められるものだ。

現在、「幕別町忠類のチーズ 湖水地方の朝」が、東京の一流レストランに、すこぶる高評価で迎えられている。ミルクの質の高さが伝わるのだという。「海岸草原のブラウンスイス」・・・この概念を、今後の努力で磨き上げたい。  2017.11.18

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