参道を歩いて森の中へ

2010.03.19
第五巻 千旅万花

私が仕事をするときに大切にしている言葉に、「土地の神の声を聞け」という言葉がある。
土地の気風、自然、文化、歴史、伝統、そして、出会うことのなかった遠い過去を生きた人々と、私たちにつながる未来を生きる人々に、心を寄せるという意味である。
このことを集約している場所がある。鎮守の森である。参道を歩いて順に鳥居をくぐり、原始の森の只中で、自然の摂理に頭をたれる。この体験は、私たちの心の底に確かに存在する感性である。日本を旅していて、山裾の鳥居から、森の中につづく参道を見つけると、私はその美しさにわれを忘れる。時には、旅程を変えてでも、森の中に歩みいることだってあるのだ。しかも、鎮守の森は日本中至るところにある。不思議な場所であるが、私は、このような場所を作り出した人々の心の中を、その意味を、いつも知りたいと願ってきた。

私は子供のころ、毎夏を母の故郷で過ごした。伊豆の河津という、温泉で知られた素朴で小さな町だが、間違いなく美しい土地である。谷あいの山裾にあった祖 父母の家の、廊下の窓を開けると、田畑や旅館の離れ家の向こうに、鬱蒼とした森があった。それが、来宮神社の鎮守の森である。有名な神社の広大な森とは比較にならぬささやかなものだが、私は一日に何度となくその森を眺めた。朝のまだ薄暗い時間には、太陽の気配とともに静寂の底から沸きあがるように、森全体を震わせて蝉が一斉に鳴き始める。昼日中は、焼きつけるような陽光を浴びて、深く力強い緑色に輝いた。そして、夕暮れには山のあらゆるところからヒグラシ が一日の終わりを告げ、夜は威圧するように漆黒のシルエットと化した。その鮮やかな景色が忘れられなかった。豊かな自然の律動に、無垢な心を震わせたのだ。思い出すといつも、せつなくて胸が苦しかった。

ふとあの森をもう一度見たくなって、伊豆半島に向かったのは、今から十五年ほど前の、初夏のことである。人生の転機を迎えていた。自分の出自を振り返って いて、あの森を思ったのだ。
父の墓参りを済ませ、私は、その森に向かった。菖蒲園にたくさんの観光客が群がっていた。田の中の小道だが、そこはもう来宮神社の参道である。まっすぐに進むと、鳥居をくぐり、あの森の深い懐に入る。町は様々な変遷を重ねて景色を変えたけれど、この鎮守の森の中では、時間はまんじりともせず静止している。 古くもなければ新しくもない。数十年の年月を経て、何も変わっていないのだ。社に手を合わせてからふと、何かに吸い寄せられるように社の裏手に回って、私は思わず息を飲んだ。
そこに、卒倒しそうなほど大きな楠木があった!大きくて大きくて、見上げると足元がふらついた。立て札には、千年も生きていると書かれている。心が目くるめく鼓動で満たされた。こんな生き物が、この世にあるものか!子供の頃に見ていたはずなのに、こんなに驚いたという記憶がない。しかし今は、眩暈のような感覚に打ちのめされている。畏怖という感情はこのようなものか。感動とも少し違う、言葉で言い表すことができない深い情動を、今でもはっきりと覚えてい る。それからまもなくして、私は、庭園都市計画家の道へ足を踏み出したのだが、自分の中にある、自然というものに対する深い敬意を確認したこの体験こそが、その契機となったのである。

鎮守の森には、たいてい、その土地の自然植生の原型が息づいている。人は森で生まれ、死して森に還るという。心に残る森を自分の出自だと考える人にとっ て、その自然の姿は、出自の姿そのものだということになる。自然植生というものは、その土地によって細かく違うのだ。イロハモミジ-ケヤキを主とした森、シラカシを主とした森・・・それは無数の構成によって表情を変える。河津の来宮神社は、イノデ-タブノキを主に構成される森だ。ヤブニッケイ、タブノキ、 クスノキ、アオキ、シュロ、シラカシ、モチノキ、ヤツデ、ヒサカキ、トベラ・・・。来宮神社にあった巨樹の楠は、成長が早く、長生きするので、ご神木としてその昔植えられたものであろう。葉をちぎって香をかぐと、楠脳の匂いがする香木でもある。鎮守の森の天空を覆う葉叢は、厚さ1mmに満たない緑の幕で現れているに過ぎないのだが、この壊れやすい存在は、人間の存在を明かす皮膜のように、美しく輝いている。この照葉樹林の中では、時間が静止し、いつ還ってきても、変わらぬ世界が待っているのだ。人がこの世から消えた後に、ここから自然植生が再生される、母の森でもある。
私は、庭園都市計画家への道を漠然と模索していた頃、頼りにした鎌倉の富士和教会で神の実在を知らされ、この世を支配する道理を覚えたのだが、それは、大自然の摂理そのものであり、日本人の心の中に刻み込まれている自然と人間の関係の原型でもある。鎮守の森の、参道と原始の森という簡潔な構造が、訪れる人に、感性を通した経験として、人間と自然の関係を教えているのだ。その関係は、この森で寄り合い、祭りを楽しみ、手を合わせて頼みごとや不安の解消を依頼することを通して、徐々に人々の中に浸透していくものだった。この森を目指して、猿の群れは天城山を下り、祖父と村人はそれを畏れた。祖父が私に、夜陰に乗じてハクビシンが徘徊することを語ったのも、この森の中だ。「トメマス」というこの神社の教えに従って、12月に酒と肉を絶った朝には、自転車に乗ってお参りに来た。細かな約束の積み重ねが、人を生かす心得を教えたのである。

だから、日本では、社寺を軸にして都市は計画されてきた。江戸や小田原のような城下町は、中心に城を据えてはいるが、目に見えぬ空間統治の要素として、社寺の配置が深い意味をもっていた。鎌倉に至っては、鎌倉の鎮守である鶴が岡八幡宮とその参道を主軸に都市計画は確立し、今もそのまま、参道と鎮守の森が都市を支配しているのだ。西洋の広場と異なり、自然の力と摂理によって支配される場所。
私の都市計画はしばしば、集落の中心軸に鎮守の森と参道を位置づける。人間にとって、人間と自然の関係こそが最も大切な主題であり、日本文化の中で、古来からこの主題の核を形成してきたのが、鎮守の森だからだ。社はあってもなくても良い。社の語源が杜であることから見ても分るように、大切なことは、人々の集落の中に、心の置き場となる深い森が必要なのだから。必要とあらば、周囲の古くからある鎮守の神様から、お札をいただいて外宮を用意すればよい。人々はこの森で集い、祭りを楽しみ、人としての節度を覚えるのだ。
輝かしい技術の時代の荒波を超えて、果たして人は、再び鎮守の森を必要とする時代を迎えるだろう。大切なことは、参道を歩いて森の中へという手続きを、人は繰り返し体験してみることが良い。河津の来宮神社にあるこの大楠を、目の前で見上げてみることが良いのだ。心の奥深くで震える感性があるはずだからだ。 私にできることは、この場所の意味を深くかみ締めながら、新しい集落へも、我々の祖先が営々と築いてきたこの鎮守の森という場所を計画し、未来に続く人々への贈り物とすることに専心することだけなのである。

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