園林都市杭州西湖

2010.03.19
第六巻 中国行路

1.祝祭都市杭州

革命前までの杭州は、農事歴にしたがって、年中行事としての祭が一年を埋め尽くしていました。
それは、宋時代(北宋960-1127、南宋1127-1279 )に発達しました。おおげさに言うと、この時代の杭州では、人々は、四季を通じて祭りに明け暮れていたようです。

1月は元旦、立春、正月15日前後は元宵(げんしょう)の祭。
2月1日は中和節。8日は龍舟の競技。15日は花朝節。
3月3日は上巳の節句。寒食節。清明節。
4月8日は仏陀の誕生日、灌仏会と放生会。15日からは僧が寺院で90日間の修行に入る。
5月5日は端午の節句。
6月は納涼の時期。
7月は立秋。7日は七夕節。15日は盂蘭盆。
8月は孔子の祭。15日は中秋節。銭塘江の大潮。
9月9日は重陽の節句。
10月冬支度。
11月は冬至。
12月は雪見の宴。8日は臘八。24日は小節夜。そして除夜。

まだ他にも、小さな祭はたくさんあったと言います。豊かでした。杭州は日宋貿易の拠点であり、北京と江南を結ぶ大運河の終着港でした。印刷技術が発達して、大衆が文物を共有し、皇帝ですら、「宣和 民と楽しみを同じくす」を統治原理として、日々の悦楽を追求したのです。それにこの時代の女性たちは自由でした。明清の時代の、あの悪名高い纏足や、朱子学による婦人差別は、この時代にはまだ行われていません。祭の日々は、音楽と舞踊、詩歌と雑芸、仮装と盛装、酒と料理、酒宴と団欒、買い物と贈答、灯火と花火と爆竹、花と虫と魚、軍艦と画舫と龍舟、乞食と無頼漢、若者と娘たち、皇帝と官吏と庶民、僧侶と道士、山車と護符、月と水と雪、生者の喜びと死者の追憶などによって華やかに彩られていました。
この時代に、江南に作られた個人の園林では、春になると一般に開放して遊観者を招くようになり、それが社会の風潮になりました。「公共」という思想が、園林を通して実現していたとも言えます。知事であった蘇東坡が、西湖の自然風尚を讃えて、土砂で埋もれつつあった西湖を浚渫し、壮大な築堤を完成するという大工事を敢行した社会的背景がここにも見られます。公園という思想が西洋に誕生したのは19世紀のことですが、中国では早くから「公に開かれた庭園」の趣味が誕生していたとも言えます。杭州では、西湖と西湖を取り囲む山々が、人々のための庭園です。園林(注1)都市がここにあります。
しかし、その背景には、長い長い歴史と、深い文化の蓄積があったのです。

2.中国の自然観について

中国文化における「自然」の発見は、その長い歴史にふさわしく実に早く、有名な孔子が、高邁な山水欣賞という思想を論じ、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」と語ったのは、紀元前五世紀頃のことです。風景式庭園の造営が始まったのも早く、初期の代表的な風景式庭園は、秦の始皇帝(bc226~206)が萬寿山に作らせた苑囿(えんゆう)と呼ばれる庭園だと考えられています。萬壽山とは頣和園で、囿とは元来狩場を意味します。今から二千年以上も前のことです。 秦の始皇帝の離宮として作られました。丘陵、中島、橋、石船、東屋等を昆明湖周囲に配した、中国隋一の貴族的大庭園です。これは、杭州西湖の景色を元に作られました。紫禁城の有名な庭園北海(ベイハイ)もまた、西湖を模範としているのです。
ちなみに日本における文化としての「自然」の発見は、徒然草を読んでも、万葉集を紐解いても分るように、西洋に較べれば長い歴史があります。自然の景色を鑑賞するという文化もまた、同様です。しかし、これは中国文化移入の強い影響下に生まれた文化です。風景式庭園の代表は17世紀初頭に造営された修学院離宮ですから、西洋より100年以上早く成立したことになりますが、これもまた、中国庭園の文化による強い影響抜きには考えられません。「景色を鑑賞する」という文化は、実に今でも日本文化の中に深く生きています。自然の景色だけでなく、床の間の生け花、焼き物の表情、様々な局面で私たちは「景色を鑑賞」します。その基本は、言葉による評価なのですが、それはそのまま、文学に通じます。与謝蕪村の名前の由来は、東晋時代に生きた詩人陶淵明の「帰去来の辞」の「帰りなんいざ 田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす」でした。清朝に編纂された「西湖佳話」の十五話「雷峰の怪蹟」にある白娘子(パイニャンツ)の話は、上田秋成「雨月物語」の「蛇性の婬」に大きな影響を与えました。同じく西湖佳話の九話「南塀の酔蹟」は瘋顚和尚済顚の奇行をめぐる物語で、一休和尚にもなぞられ、「本朝酔菩提」に影響しました。また、芭蕉が奥の細道の旅で、「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んだのは、蘇東坡の「飲湖上初晴後雨(注2)」の引用です。
西湖は、西洋庭園学の表現を使うとランドスケープ庭園=風景式庭園です。西洋における風景式庭園という庭園様式は、18世紀の英国に誕生した近代庭園の様式で、「近代」の象徴として西洋各国によって模倣されました。風景式庭園以前は、古典式庭園と呼ばれ、水や岩や植物等自然的要素を、造型の枠にはめて人間の支配下に置く整形様式ですが、風景式庭園の誕生は、西洋人が「自然」を発見し、その思想に「自然」という要素が加えられたということを意味します。別の表現を使えば、「自然の景色を鑑賞する」という文化が誕生したということになります。現代は西洋近代隆盛の時代ですから、何でも西洋の歴史を尺度にしてしまいます。ですから、私たち日本人も、この文の主題である中国も、同様に18世紀かあるいはそれ以後に「自然」、「自然景色の鑑賞文化」を発見したと思い込みがちですが、それが違う、というのが、この中国風景式庭園について考える愉しみの一つなのです。

3.「景色」に対する趣味

四世紀以降の中国の江南では、自然詩、田園詩、風景画とともに、貴族文士たちにもてはやされた山水游記や放志という特異な詩文のジャンルが生まれました。そこに見られる風景の見方は、風景を単に鑑賞するのではなく、歴史、民俗、詩文といった文化を重ね合わせて読み取り味わう様式でした。「山水」という語に、中国の自然観が凝縮していく所以です。ここに、中国における自然景色の鑑賞という文化が誕生し、現代にまで脈々と受け継がれてきたのです。
また、風景画というものもまた、画と詩と題字と落款の印を一体として鑑賞します。東晋の末ごろに、風景画は誕生しましたが、唐になるとそこに詩が書き加えられ、宋代には題が書きこまれました。そして明清の時代には印が加わります。篆刻です。それまで実用であった篆刻が、独立した芸術のジャンルになりました。これは、山水画を見る見方の変遷でしたが、同時に、自然風景を鑑賞する見方の変遷そのものだったのです。

中国では江南の景色が際立って愛されます。日本の美しい山河を知っている日本人は、特に江南の景色に感動することはないかもしれませんが、しかし、中国を北から南へと旅をすると、江南がいかに特別な景趣に富んだ土地であるのかがわかります。
中国北部は空気が乾燥して、褐色の雰囲気一色です。水と緑陰が欠乏していることが、北中国の風景であると言っても良いのです。北方は芸術の遺跡であって、北京の城壁、天壇の祈念殿、紫禁城の各宮殿に配された北海(ベイハイ)、南海などの湖水、萬壽山、昆明湖、玉泉山、臥佛寺、碧雲寺、八大寺、明の十三陵、大同の石仏古寺、長城等、そのほとんどは人工の美であると言えましょう。
ところが、湖南岳洲より南に入り、洞庭湖を中心とした瀟湘八景などは、文学的な歴史的連想のあることが、大いに評判を高めました。しかも、山水の趣に富んでいます。特に江南の水郷風景はぬきんでており、景趣の白眉なのです。また、銭塘湖以南の、王義之の蘭亭、紹興一帯の運河の自然美、これらが南方気分を代表しています。北方の山岳気分に対して、南方は潤沢気分であり、湖辺、江岸、運河などの水趣を得て、季節により雲煙となり、霞となり、雪となり、潤沢味が変幻出没するといわれてきました。本来風景山水には必ず相当の水を伴うべし、空気には潤沢を必要条件とすべしなどと、誰が決めた訳ではありませんが、一般に風光明媚には水が風致の第一条件となしてきました。江南の景色としては、太湖、無錫、常熟、昆山、湖州など枚挙に暇がありませんが、一般的には、蘇州、南京、杭州でしょう。
西湖は景趣に柔らかみがあります。宋代臨安の都の跡であって、西湖はその一大遊園地です。西湖は、古来文学的に史的足跡が多く、これを模範とした庭園はアジア全域にわたって実にたくさん作られた、名園の手本でもあります。東洋の造園形式の基準をなしているとも言われます。日本では、後楽園、水戸の千波沼、赤穂城庭園、その他幾つかの庭園が西湖を模範として作られました。錦帯橋は、その形は蘇堤の六橋から、名は白堤の錦帯橋から取ったのです。西湖は南画気分に富み、蘇東坡、白楽天、林和靖などが春暁の靄を吟じ、平湖の秋月を賞する韻趣が見られます。また西湖に遊んでは、宋の臨安の都の故事を見出し、また廬山香炉峰では李白の挿話を考えます。景色は古代の文事と重なりあって、文学を生み、芸術を創造し、趣を増すのです。中国には、自然の景色に対する豊穣なる感性が迸っています。それは、文学者、文人の存在を抜きには語れません。そして、その景色を暮らしの中に取り込むという庭園文化の担い手もまた、文学者であり、智者であり、文人だったのです。
極端なことを言えば、史跡として有名なところでも、風景としては何等見るべきものがないところもあります。当地を見ずに詩篇を読んで想像して描かれた文人画も多く見られます。したがって、歴史、伝説、文学、芸術に対する理解があって初めて、中国の景色の美を語ることができるのです。これが、中国の風景を楽しむ際の鉄則です。

4.景色鑑賞文化の発展

風景式庭園は、その後長い歴史を経て成熟し、江南に見られる文人庭園の造園は清朝期(1644~1912)まで続きました。ですから、この2千年の間に中国風景式庭園は発展し成熟しました。杭州の西湖もまた例外ではありません。
中国風景式庭園は、中国では写意山水園という表現をすることもあります。写意とは、東洋絵画で、外形を写すことを主とせず、画家の精神または対象の本質を表現することを意味します。ですから、写意山水園とは、単なる自然のリアリズム表現ではなく、造り手の精神文化を形にする庭園というような意味でしょう。その思想は、(1)明確な造園の立意、(2)自然の尊重と自然の洗練、(3)緻密な構成と借景、(4)巧みな選定と配置、(5)多様な分野の知識の総合的な応用、以上の要素を特徴とします。
中国古代には儒教、道教、仏教が神仙思想、蓬莱思想を広め、また、荘子による玄学思想は、天・地・人の思想を説き、それは万物と人の合一を意味しました。これらの思想が自然美の発掘と追求をもたらし、知識人の間に大自然への畏敬の念が高まっていきました。
秦の始皇帝は、不老不死の薬を求めて日本に徐福を遣わせたという故事がありますが、それが適わないと悟るや、咸陽に流れの水を導いて池を作り、築山を築いて蓬莱山を形作り、池には神仙島を作らせました。この苑囿が古代山水園の雛形であったと言われます。しかし、この時代に都市は城砦に囲まれ、人々はその中で生活のすべてをまかなう小宇宙を形成して暮らしていました。都市の周囲に広がる荒野は、蛮族が押し寄せる恐怖に満ちた土地だったのです。

5.四世紀~六世紀

中国文明が、都市と山水、あるいは、都市とそれを取り巻く自然世界との関係について、大きな転換を果たしたのは、 四世紀から六世紀(東晋、五胡十六国時代、南北朝時代)でした。北方民族の進入により洛陽を失って南下し、江南の地に首都を移し、東晋、宋、斉、梁、陳と、脆い王国を建ててはこわしていた人々は、その首都である建康(南京)という城壁もない都市の周辺に広がる、開放的で、明るくやさしい、温暖で湿潤で華麗な自然美に魅せられました。乱世であった魏・晋南北朝(220~580)の時代です。知識人は俗世からの逃避を求め、孔子の唱える「聖人の道」を離れて老子や荘子などが唱えた玄学に耽溺しました。おのずから、自然山水の美を求め、親しみ、情感を寄せ、「隠逸江湖」、つまり大自然に隠遁する気風が生まれ、それが写意山水園造園の原動力となりました。特に、晋の皇帝が江南に移動した際に財界人・文化人ともに江南に逃れ、結果として格別に風光明媚、山紫水明の地である江南の美を享受し、大自然を謳歌したために、江南地方が脚光を浴びることになりました。
たとえば、当時の代表的な「山水詩」として、陶淵明の田園詩「桃下源記」(桃源郷を歌った有名な詩)、王義之の「蘭亭記」などがあります。それらに共通するのは、心情や趣意を表現するために、自然の景物を描写していることです。そこから、造園においては、山水の再現と山水の形式を通して、人の情緒を表現する形式が追求されることになりました。優れた風景の地に、有力者が楼亭を建築して、大自然を背景に「民衆と共に楽しむ」という造園趣向が発達していったのもこの頃です。山水の美と魅力を愛でる自然詩、田舎の愉悦を歌う田園詩、山水画と呼ばれる風景画、山水遊記の散文、郊居、園田居、山居といった居住、造園、園芸といった文化が同時に開発されたのです。その担い手は、読書人であり、文人と呼ばれる知識人でした。古来中国では、その地方地方の風物の多くは、文人の筆によって描かれることで、知られてきたのです。文人は多く旅をして詩想を得てきました。盛唐時代の李白による、「峨眉山月詩」や「早發白帝城」などが有名です。

6.宋の時代の西湖

唐(618~907)が中国を統一し、宋時代(北宋960-1127、南宋1127-1279)にかけて国家の基盤も確立してくると、芸術文化思想が民衆にも広まり、自然への思索が、ますます写意山水園の発達を促しました。杭州西湖の最盛期です。
この時代には、詩文、絵画、工芸、建築などの分野が特に発達し、庭園はその全体を総合するより高次の芸術と理解されて、国全体に大小無数の写意山水園が作られました。江南という風光明媚な土地にも、文人、財界人が知恵と財を投入して無数の写意山水園を作り、山水愛好の詩文を生み出したのです。杭州の経済もその最盛期に達し、マルコ・ポーロが杭州を訪れて「世界で最大の豪華で富裕な都市だ」と賞賛したように、巨大な商業都市杭州を背景に、その文化的流れが確立したのが宋の時代です。私たちが多少とも馴染みのある唐詩のすべては、この所産であり、とりわけ中唐時代に杭州の知事として赴任した白楽天の西湖に対する愛情告白の中にこそ、その見事な達成が見られます。そして、中国全土がその趣向を真似て園林を作りました。特に、城壁に囲まれた陰鬱な風土を持つ質実な北方中国の人々にとって、明るく開放的で温暖な江南の風土は、憧れの的だったのです。
特に、この時代に文人の地位が高まったことが、写意山水園の発展に大きく寄与しました。中唐時代白楽天や、北宋時代の蘇東坡がその文人の代表です。
また、この時代は、西湖十景という「風景の見方」の定型が定まった時代でもあります。北宋の初め、宮廷は翰林図画院を創設して各地から画師を召集し、画家の育成を図りました。科挙制度の一分科にも加えたのです。詩情画意の一致という言葉がありますが、優れた画家たるものは、一篇の詩が与える心象風景を読み取って、現実の景色の中に世界を描き出す才能が求められました。宋時代には杭州では商人階級が台頭し、貴族階級は消滅していました。西湖の畔の主要な部分は、特権的な読書人、つまり文人によって占められていたのです。詩、書、画、家具調度、什器など、趣味と洗練と価値と評価の方向を決定したのは、教養と優閑に恵まれ、高踏的で孤高の気分を表現する読書人だったのです。読書人は、西湖を蓬莱の仙境に見立て、また、西湖周辺の山林に桃下源を見ることが、定型となっていきました。南宋にもこの風潮は引き継がれ、金に追われて杭州へやってきた画家たちもまた、西湖の風景を描きました。それらの作品には、「断橋残雪」、「三潭印月」、「雷峰夕照」など、四字からなる画題を記入することが常套になったのです。
西湖十景と呼ばれる、「柳浪聞鶯」、「雷峰夕照」、「南屏晩鐘」、「三潭印月」、「蘇堤春暁」、「曲院風荷」、「双峰挿雲」、「平湖秋月」、「断橋残雪」、「花港観魚」は、このようにして定着していきました。
宋の時代に、杭州西湖、あるいは江南の文人文化はもう一つの大きな変化を迎えます。それは、印刷技術の発達です。宋代に中国文化は、筆写の時代から印刷出版の時代に変わったのです。杭州は、四川、安徽地方とならんで、宋の時代に印刷術における全国的な中心地に育っていました。これは、それまで貴族階級に独占されてきた文物を、大衆に開放する革命でした。山水愛好の文化もまた例外なく、不特定多数の市民生活に浸透していき、一方では、上京する観光客目当てに、このような画を印刷した旅行案内図まで作られるようになったという のです。このようにして、十種の風景点が定まっていきました。
また、この時代には造園の手法も発展しました。借景の利用、築山や畳石の造営法、「山」と「水」の組み合わせによる効果的な手法、樹木や草花を群植する手法、亭・台・楼・閣を配置する思想の発達も、この時代のものです。
13世紀南宋の時代の杭州の人口は、百万とも百二十万とも言われます。この時代に杭州を訪れたポルディノーネの修道士オドリコは、杭州が世界最大の都市だと述べています。
一方、奢侈放縦の代償として、政治には賄賂や横暴専横が横行しましたし、農村は荘園として支配されて疲弊しつくし、何度も争議が勃発しています。自然破壊は著しくこの時代に著しく進みました。製陶、製紙、製墨、住居建設、燃料供給のために、山林の木材を伐採したのです。大火も多く発生しました。南宋の時代に大火は21回、被害の甚大な火災は5回、記録されています。

7.西湖浚渫の歴史

中国近代を代表する地理学者・竺可楨の研究によると、西湖はもともと一つの潟湖でした。二つの半島に抱かれた湾が西湖の原型だったのです。銭塘江が土砂を運び、12000年かかって潟湖の入り口に堆積して現在の杭州都市がある土地ができたそうです。
六世紀から七世紀初頭にかけて、運河が整備され、黄河流域の中国北部と長江流域の中国南部が結ばれ、杭州はその大運河の終点でした。その頃の西湖は低湿地でした。
代宗の大暦年間(766-779)に杭州長官であった李泌は、水門を造り、市中に貯水池を設けて飲料水を確保し、田畑を灌漑するようにしました。
長慶年間には、白楽天が知事として赴任し(822年)、堤を築いて水防灌漑につとめ、水運の便をはかりました。
五代には呉越国が杭州を首都とし、その王であった銭鏐は浚渫を専任とする千人の兵隊を西湖に常駐させて整備しました。70年間の統治期間にこの王国は西湖の風景の整備に努め、熱心な仏教徒であった銭氏は、西湖の周辺に多くの寺院を建立したといわれます。東晋の時代に建立された霊隠寺をはじめとして、唐時代にはすでにこの地域に360の寺院があったと言われますが、銭氏はさらに寺院の建立を進め、昭慶寺、浄慈寺などの古刹、九渓の理安寺、霊峰の霊峰寺、雲栖の雲栖寺、赤山埠の六通寺、上天竺の法喜寺、月輪山の開化寺などを建立し、総数480にまで増やしたのです。また、仏塔の建設も盛んで、霊峰塔や保俶塔が建てられ、また、銭塘江畔の月輪山に六和塔を建てました。西湖が城市山林の原型となる風光を整えたのは、この時代だったのです。
西湖は放置すればマコモが蔓延り湖面がふさがって、泥が堆積して水深が浅くなります。事業意欲旺盛な豪族や僧侶はたちどころに土地に手を入れて農地として囲い込んでしまいます。
北宋には蘇東坡が井戸や運河を整備し、富豪階級からその土地を奪い返し、浚渫してその泥で堤防を築き、六つの橋をかけ、柳と桃と芙蓉を植えました。蘇堤です。「蘇堤春暁」「六橋煙柳」という言葉が表すように、見事な造型感覚です。20万人の労働力を投入したと言われます。湖心亭周辺で最も水深が深いところに三つの石塔を建て、その範囲内では菱や蓮根を養殖することを禁じたものが、「三潭印月」です。また、一千人以上の兵士と工人を投入して市内の運河を整備して、飲料水、生活用水の不安を解消しました。いまある西湖の原型は、このときに整えられたのです。
南宋が金に追われて臨安(杭州)に都を移してからは、杭州は特に栄えました。
しかし、元時代には首都は北京に移転し、皇帝は、一地方都市に零落した杭州と西湖を荒れるにまかせました。南宋の皇帝たちが西湖周辺の魅力に惑溺して滅亡したことを戒めとして、西湖に対して「廃して治めず」と定めたのです。二百年のうちに、蘇堤の西は干上がり、大半はふたたび富豪の農地と化したそうです。
明時代1508年、杭州知事楊孟瑛(温甫)によって修復されて旧観に復しました。その事情は、田汝成の「西湖遊覧志」「志餘」に詳しく書かれています。
清時代には、順治帝は堤防を修復、橋梁諸建築を修理し、続いて、康熙帝も、雍正帝も、古跡の復興と湖水の整備に尽力しました。清朝の機運に乗じて、「西湖佳話」が康煕年間に、陳樹基の「西湖拾遺」が乾隆年間に出版されました。最後にこの十景に手を加えたのは、清の康熙帝です。1699年に彼は、西湖十景すべてに亭を建てさせ、筆を揮って題名を石に刻ませました。しかも、春夏秋冬の順に並べ変えさせ、幾つかの題名を改めさえしたのです。
近代になってから放置された西湖は、水深0.5メートルほどで汚染がひどく荒れていました。革命後の、1952年から58年にかけて大規模な浚渫が行われ、水深は1.8メートルに増えましたが、1966年以来の文化大革命(十年の動乱)の結果、再び西湖は荒れ始め、その後も浚渫を繰り返したようです。2003 年に杭州市は、近年の富栄養化による水質悪化が懸念される西湖の再生を掲げ「西湖西進」プロジェクトをスタートさせ、西側に約70haの巨大ビオトープを整備して、西湖を6.1平方キロメートル拡張しました。

8.園林の将来

庭園は、脆い存在です。上海の豫園の入り口には扁額に「城市山林」と書かれており、それは、城市の山林、つまり都市の中の森という意味なのですが、庭園が文化と自然の両極を凝縮した繊細な均衡の上に成立していることを意味しています。
明朝末期の張岱(ちょうたい)は、平和な時代の西湖の風物と遊興を語った「西湖夢尋」という書物の中で、明末に西湖南路の柳亭付近にあった名士の別荘群が兵火にあって荒廃したことを踏まえて、北宋の李文叔が洛陽名園記に、名園の興廃によって洛陽の盛衰を占い、洛陽の盛衰によって天下の治乱を占うと言ったのは、誠の言であると語りました。西湖もまた城市山林です。自然の美を求める人の心が、自然が美を維持できるように手を差し伸べる。その心を励ますように、文学者はその自然美を褒め称え、人々は唱和する。そのような微妙な調和の上に庭園は成り立ちます。庭園は、自然と人工による共同作業の場、西湖が城市山林たる所以なのです(7)。
しかし、そのようにして作られた中国庭園の大半は現存していません。蘇州などに現存する庭園も、現実には清朝後期あるいはそれ以降に、その時代の趣味に基づいて再建されたものだと考えられています。特に、今では「騒乱の十年」と呼ばれる文化大革命時代には、富裕階級の趣味である園林などは当然のごとく収奪の対象とされ、家具は持ち去られるか破壊され、囲われたエデンは、開かれた庶民の公園と化したのです。西湖の造園的遺構もまた、同様です。現在の蘇堤や白堤に限らず、西湖の周囲を散策するたびに、人は、その樹木の若さ、構築物の新しさに驚かされることでしょう。春節は柳の新緑と桃の花の季節ですが、おそらく1970年代の春節は、西湖周囲においても、殺伐とした情景が支配していたのではなかったかと思われます。その修復は、鄧小平による改革開封政策以後の作業でした。ですから、中国の庭園計画は、空間の造型としては中国文化の特質の表現として突出しているとはいえ、残念ながら中国ではいまだに、園林に関する近代科学としての学問研究が乏しく、考古発掘も皆無に等しいようです。人は工芸を発達させて衣料を満たし、飢えを満たすために食を生産し、そして、雨露を凌ぐために家屋の梁を高くあげる。これらは人間の生存にとって必要条件です。衣食足りて礼節を知るという言葉があるように、人はこれら必要条件を満たして後にはじめて、次に続く充分条件の追求に力を注ぐものです。庭園はこの世の理想を求める文化であって、詩、書、画を求めた文人が、歌舞音曲、食、その他この世のすべてを充満させた庭園の開発に没頭したのであってみれば、中国が庭園研究に向かうのはこれからであると大いに期待されます。しかし現状では、私もこの論を、旅の観察と記憶、そして、下記に列挙した参考文献を基に語るしかなかったのが実情です。
「夢梁録」の著者は、「臨安の風俗、四時奢侈、賞玩ほとんど虚日なし」と書きました。為政者の退廃は困りますが、ここには、この時代の杭州が少なくとも庶民にとって平和で楽しい日々であったことが報告されています。これを破壊したのは、世界中どこも同じですが、時間と金銭と効率と計算によって構成された近代社会の到来によるものでした。近代は、この時間の円環の中で永遠なる営みを続ける小宇宙を破壊したのです(7)。
しかし今、近代を積極的に取り入れた現代の私たちは、近代の所産の上に再び、自然との関係を豊かに築き、暮らしの楽しみ、この世の喜びが満喫できる庭園都市、園林都市の構築を夢見ています。白居易や蘇東坡以降、社会的支配層が築いてきた文人思想、山水思想、園林思想あるいは写意山水園思想は、今も中国民族の記憶としてその深層から消えてしまったとは思えません。中国悠久の歴史の大半は、山水という概念を通して、まさに自然と人間の関係の模索に費やされたと言っても過言ではないからです。日本もまた、この思想に深い影響を受けて、文化と思想を積み重ねて来ました。今私たちは改めて、その思想的変遷を人類の貴重な財産と考え、悠久の時間の流れを反芻しながら、未来の思想と方法を捜し求めるべきであろうと思われます。

9.主要参考文献

  • (1)西湖佳話/墨浪子編
  • (2)山水思想/松岡正剛
  • (3)中国の風景と庭園/後藤朝太郎 昭和3年
  • (4)支那庭園論/岡大路 昭和18年
  • (5)中国写意山水園論/胡長龍・章俊華・安楽裕吾・白井彦衛 千葉大学学報48号
  • (6)西湖案内/大室幹雄
  • (7)園林都市/大室幹雄
  • 造園の歴史/岡崎文彬
  • 長物誌/文震亨
  • 西湖遊覧志/田汝成 1547年
  • 西湖遊覧志余/田汝成
  • 髄園食単/袁枚
  • 袁枚/アーサー・ウェイリー
  • 園冶/計無否
  • 芥子園画譜
  • 英国ガーデン物語 庭園のエコロジー/赤川裕
  • 中唐文人考/太田次男
  • 中国文人傳/福本雅一
  • 中国文人の思想と芸術/高畑常信

注1

園林 中国最古の辞書「設文」には、園「樹果ある所以なり」、苑「禽獣を養う所以なり」、囿「苑に垣あるなり」「一に曰く禽獣には囿という」とあります。つまり、園は果樹園、菜園など農園の意味であり、苑は禽獣すなわち珍獣を含めた動物を飼育する施設。古代では、苑囿は皇帝の庭園を意味した。現代は、園林で統一して、国家の園林を皇家園林、貴族、豪商、官僚など民間の園林を私家園林と呼んでいる。

注2

蘇東坡「飲湖上初晴後雨」(こじょうにいんす はじめはれるも のちにあめふる)
水光瀲灔晴方好(すいこう れんえんとして はれ まさによし)
山色空濛雨亦奇(さんしょく くうもうとして あめもまた きなり)
欲把西湖比西子(もし せいこをとって せいしに ひせんと ほっすれば)
淡粧濃沫總相宜(たんしょう のうまつ すべて あいよろし)

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