言葉

2017.09.02
第四巻 自然万象

「自分の胸に手を当ててよく考えてみなさい」とは、親が子供を諭すときに使う言葉。親が干渉しすぎないという条件が必要だが、内心の言葉を探し当てる濃密な時間の中で、子供は自然に、この世の道理をひとつずつ理解していく。

ところで、この「言葉」はどこから来るのだろうか。健全と不健全の境、正常と狂気の違い、この根拠は帰属する母集団の規模で決まるものではない。無垢な子供の心が、自然から汲み取る言葉を律している規範、つまり、善悪の区別は確かにある。

では、この言葉を律している規範、善悪の区別は、世界を支配しているのだろうか・・・

人生60年の時間を振り返り、また、人類の歴史を紐解いてみれば明らかに、この世に悪は栄えないのだと分かる。悪は長い時間の中で滅んでいくのだ。それでは、これは、子供心に理解する言葉を律している規範と、同じ力の働きなのだろうか・・・

ブルドーザー一台あれば、目の前の自然はたやすく破壊されてしまう。しかし、生態学が教えるように、破壊された瞬間から大きな力が動き始めて、数百年、ときに、数千年かけて、充実した自然植生の森を回復するのだ。その健全な秩序を作り出す規範と力が、この世を支配している。そして、無垢な心に言葉を伝達するのだろう。言葉を以て規範を伝達するのである。

 

内心の声は、自我が発達する思春期から徐々に沈黙していく。人は人の中で生きる、つまり、社会に身を置いて生きていく準備をするからだ。

それを、思春期の憂鬱とでも呼ぼうか。胸に手を当てて問いかけても答えが見つからない。内心の言葉を失う、私にとってそれは、途方に暮れる出来事だった。

青春時代には、その言葉のありかを探し求めて万巻の書物に触れ、旅に明け暮れ、人々に会い、美術館博物館劇場に足を運ぶ日々を過ごしたのだが、ついにその言葉を見出すことはできなかった。それでも、自然がこの世の規範であり、とてつもない力でこの世界を支配していることは、疑う余地もなかったのだ。

理解できたことは、自然観こそが、その人物の、あるいは、その民族の思想であるということだ。

欧州に暮らしてつくづく分かったことだが、彼らは人間が自然を支配していると、本当に信じている。米国人は、科学が無上の思想であり、科学的であることが、世界に優越する条件だと信じている。

これらは妄想にすぎないが、その如何にかかわらず、自然は世界に規範を示し、力で律している。自然か、科学工学か・・・ではない。自然は支配者なのだ。この支配者の規範をみずからのロゴスに昇華することができるか・・・人類は、試されている。

 

心ある人々は、子供のころに、胸に手を当てて探し当てた「言葉」を記憶している。道理にのっとった言葉を聞くと、人は心を開き、善い言葉に触れたとき、人は心を震わせて聞き耳を立てる。この一点が、人間社会の未来を信じられる命綱ではないだろうか。                   2017.9.2

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