山水学のこと

2017.09.18
第六巻 中国行路

 以下は、2015年9月15日に中国浙江省仏学院にて講演した原稿である。

 このころの私は、中国の禅宗が東アジアに広めた自然思想である「山水」を、総合的な学問として打ち立てるべきであると考えていて、その意志を語り掛けた。大学院生を中心とした聴衆は敏感に反応し、講演終了後、いわゆるスタンディングオベーションで拍手が鳴りやまなかった。

 評判を聞いた、私が客員研究員を務める浙江工商大学東洋文化研究所から、後日、同じ講演を大学院生に対して行うように求められ、同年10月15日に浙江工商大学で講演した。したがって、計2回、同じ講演をしたのである。

 現在、私は、学問というよりも、思想としての「山水」について表現を開始した。それは、このブログの「自然万象」に積み上げている。私は、世界の規範を支配する者としての地位を、山水、つまりは、自然に見出したのである。

 

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 学生が講堂に、三々五々、集まってきた。

 

 

■はじめに

 

私は今日、みなさんに、庭園と禅と山水について語りたいと思います。

時間が限られているので、構想の骨格だけ、分かりやすくお話しするつもりですので、宜しくお願い申し上げます。

 

山水は、東アジア全体に広く存在し、しかも、芸術、工芸、宗教、哲学、庭園、文学、あらゆるメディアに登場します。汎東アジア的な、世界観とでも申しましょうか、ものの見方、考えかたであります。この山水を、東アジア全域に広めたのは、禅宗です。禅の本質と山水は、重要な関連があるのでしょう。

山水画は、美術作品だけでなく、茶碗、箸、襖、衣装、掛軸などの工芸品にも、どこにでも描かれていますが、それは造型としての山水です。山水の本質は、あくまでも、考え方にありますが、主題としての山水は、実に様々な造形文化に結実しています。

庭園もまた、山水を主題とした造型です。

人が山水庭園を造形する理由は、山水の造型がその場所に良好な気を生み出し、それを眺める人間の胸中にも、優良な気が生まれると考えるからです。

美術、工芸、庭園において、山水は、抽象化、理想化され、具象的な形態をあらわしています。

私の職業である庭園都市計画家は、山水都市計画家とも言えます。つまり、住宅、商業施設、病院や学校、その他、人々が集住する施設を、山水の理念に基づいた庭園都市として造型する仕事です。現代の科学では、生態学をしばしば応用しますが、科学の世界では、生態学は科学ではないと非難する科学者もあります。山水とは、自然学であるともいえますが、生態学もまた自然学を目指しており、自然を語ろうとすると、西洋的な科学では表現できないからです。人間は、自然と切り離しては、存在しえないのです。山水という理念の重要性がここにあります。

杭州は実に見事な山水都市であると言えます。行政とみなさんの歴史的な努力で、山水都市を造型してきた。そして、山岳寺院である径山萬壽寺の寺容は、山水城市計画の結晶であろうと思われます。この主題については、のちに説明したいと思います。

山水は、視覚的な造形も行われますが、本質的には、理念です。この世の本質を一言で言い表すと「山水」ということになる。これは、きわめて東洋的な考え方であります。西洋では、科学が世界の本質を説明する方法としてのパラダイムを形成しています。それは極めて分析的な方法論です。一方で、私たち東アジアの文化は、全体を総合的に把握するために、物事の本質を簡潔に表現する努力を続けてきました。この世の本質は山水である、これが、東アジアに暮らす私たちがたどり着いた真実なのです。そして、物事の全体と本質を簡潔に表現するこの文化は、偏った西洋文明を乗り越える道を切り拓くと、私は確信しています。

今日は、はじめに分かりやすく、庭園というメディアと禅について触れ、私の職業である庭園都市計画家について説明した上で、最後は、山水にたどりつきたいと考えています。

 短い時間ですが、宜しくお願い申し上げます。

 

■庭園文化と禅

みなさんは、「庭園文化」と聞いて、何を想像しますか?

最初に理解しておいていただきたいのは、庭園は造型ですから、技術、美意識、様式などで表現されます。一方の山水は、観念であり、悟りであり、理念です。哲学、思想と言っても構いません。造形は、結果として形に表れます。庭園造型の背後に、理念としての山水が隠れている、あるいは、山水を表現の主題としている、そう理解してください。

中国の庭園は、一般に園林と称され、北京を中心とした地域に皇帝が作った頤和園、避暑山荘などの大庭園、そして江南では、蘇州を中心に富裕層が作った留園、拙政園など、個人邸の庭園群が有名です。ここでも、主題は一貫して山水です。

私の母国である日本の庭園文化は、平安時代の貴族が作った浄土庭園、禅宗寺院に作られた枯山水、茶の湯とともに発達した露地、江戸時代の大名が作った池泉回遊式庭園などが有名です。

さきほど、人が山水庭園を造形する理由は、山水の造型がその場所に良好な気を生み出し、それを眺める人間の胸中にも、優良な気が生まれると考えるからだと申し上げました。

この写真は、日本の室町時代後期、つまり、15世紀から16世紀にかけて、京都にある臨済宗龍寶山大徳寺の塔頭である大仙院の方丈北東部に作られた枯山水庭園です。

奥山から湧いた水が、滝を落ちて流れとなり、人里を巡って、海に流れ込む情景を、石と砂利で具象的に表現しています。方丈は和尚の居室で、特に北東部の書院は和尚が寝起きする居室です。和尚は、この庭園の山水を日常的に眺めながら、胸中に優れた気を取り入れる、という考え方です。

日本庭園の中で、茶の湯にまつわる露地庭園だけは、山水を造型の主題としていません。茶の湯は、径山萬壽寺から鎌倉へ臨済宗が移入されるのに伴って、日本に輸出された文化です。当然、山水の思想は大きな意味を占めています。露地庭園の中では、山水は造型の主題とされませんが、茶碗、掛軸など、工芸、書、美術、文学を通して山水は語られます。茶の湯の作法は、臨済宗寺院の作法をそのまま取り入れているので、「胸中の山水」という禅宗の理念もまた、茶の湯の中で生きています。

 

また、英国には、西洋文明を代表する庭園文化があります。圧倒的な中国の影響下で誕生した風景式庭園という様式もあります。これは、江南の洞庭湖、西湖など、ダイナミックに造型された中国の自然風景に感服した西洋人旅行者が本国に伝えた文物を元に、誕生した様式であると考えられています。しかし、山水をLandscapeと翻訳しているように、山水の本質、東アジアの自然学の理念までは、理解できなかったようです。理念がなければ、庭園造型は単なる技術、あるいは、様式上の課題にすぎません。

西洋文化にも自然に対する思想はあります。自然観こそが、東アジアと西洋を分かつ重要な要素ですが、この設問は、あとでお話しすることにします。

英国庭園文化は、19世紀に、つまり、世界の7つの海を支配した裕福な時代に、市民階級が台頭し、田舎家の庭Cottage Gardenという様式も登場しました。英国人は世界中で、この庭園様式を造型したので、近代中国にも影響はあるだろうと思います。

「庭園都市Garden city」という都市計画思想が誕生したのも19世紀末から20世紀初頭の英国です。英国には、現在、その思想に則って作られた都市がいくつか存在します。

しかし、自然観、自然学という観点から見れば、それらは、禅宗が東アジアに広めた山水という哲学とは、明らかに異なるものです。

 

■東西の自然観

私は今年60歳になります。私が学生時代には、比較文化学、あるいは、比較文化論が盛んに論じられていました。主に、東洋と西洋の比較が多いのですが、たとえば、西洋は分析的、東洋は直感的、西洋は石の文化、東洋は木の文化、という具合に、芸術、文学、歴史、技術、宗教、その他、すべてを比較の対象としました。鋸は、日本では手前に引くが、西洋では押す、という具合に、なんでも比較したのです。

日本は第二次世界大戦に敗北し、7年間、アメリカ合衆国の占領下を経験しました。アメリカや英国などは植民政策の国家ですから、他の国からの収奪で国の富を作り出しています。日本はアメリカの物質的な豊かさに圧倒されて、日本とアメリカ、あるいは、東洋と西洋は何が違うのか、必死に研究したのです。

その結果たどりついた解答が、「自然観」です。

自然観というものは、人間の思想の根幹にあります。西洋の思想は、自然を人間の支配下においています。私は、5年間ほどアメリカと英国に住んだことがあります。学生時代には、人間は自然に生かされているのは当然で、西洋人が自然を人間の支配下にあると考えているということが実感として分かりませんでした。しかし、西洋の国に住んで、勉学に励み、仕事をしながら、直接西洋人のものの考え方に触れてみると、彼らは確かに、人間が自然を支配しているという前提に立っていることが分かり、目から鱗の思いをいたしました。

一方で、中国は自然学の国です。

近代中国の偉大な思想家魯迅は、「小雑感」という一文の中でこのように語りました。

「人は往々にして僧侶を憎み、尼僧を憎み、イスラム教徒を憎み、キリスト教徒を憎むが、道士を憎むことはない。この理屈がわかれば、中国の大半のことは理解できる/人往往憎和尚,憎尼姑,憎回教徒,憎耶教徒,而不憎道士。懂得此理者,懂得中国大半。魯迅」。

道士とは、自然の道理を悟り、人間としての本質を理解することで、解脱を求めて修行をする人です。

 

孔子は紀元前5世紀に、山水欣賞について語りました。中国では、古代から自然を求めたのです。自然学は中国人の本源的な思想回路の中に組み込まれた優れた資質であると思われます。道士は独自にこの道を追い求め、自然学は宋代に入って禅宗と出会うことで、山水の言語に統合されたと考えられます。

宋代には、数多くの芸術家が、山水画を描きました。一方の西洋がはじめて描いたとされる風景画は、16世紀の哲学者アルブレヒト・デューラーが描いた「アルコの巡礼」であるとされています。自然学において、東アジアが傑出している所以です。

 

日本は、過去2千年以上もの間、圧倒的な中国の影響下にあったことは、ご存じかと思います。

日本史上、遣隋使、遣唐使、日宋貿易、日元貿易、遣明船などと称して、時の政府が優秀な知識人を中国に遣わし、世界最先端の文物を輸入しました。宋代を頂点として、中国文明文化は、まさに世界の最高峰にありましたから、その中国の近くにいて頻繁に学ぶことができたことは、とても幸運であったと言えます。

浙江省の寧波と日本の間に船が行き来しました。東シナ海は荒海で、多くの船が難破して数多くの優秀な人々が命を落としました。ですから、さきほど私は、中国から「文物」を輸入したと申しましたが、実際には圧倒的に「文」に偏っていました。「物」は、狭い船には邪魔ですし、コストが高くつきます。その点、文であれば、紙に書き写して、何通も同じものを作り、何艘もの船に分乗させれば、少なくとも一通は日本に届いたのです。自然学山水もまた、禅宗と一緒に日本に届きました。

その歴史の中で、二度、その時代のもっとも優秀な中国人が、大挙して日本にやってきた時期がありました。13世紀の宋末元初と、17世紀の明末清初です。

宋代はさきほど申し上げたように、中国が世界でとびぬけて優れた文明文化を発達させた時代です。しかし、13世紀には蒙古による元王朝が国を支配することになり、それを嫌った漢民族の知識人が日本に渡りました。その当時、寺院は今の大学のような位置にありました。隆盛を誇ったのは禅宗、それも臨済宗です。ですから五山の一位の地位にあった径山萬壽寺は、世界の最高学府でした。13世紀には、径山萬壽寺から、数多くの有名な僧が日本にやってきました。

蘭渓道隆、兀庵普寧、大休正念、無学祖元、一山一寧、等々、錚々たる高僧です。元代と明代にも、径山萬壽寺から来日した高僧は数多く、とてもそのすべてをお伝えすることはできないほどです。

高僧には、数多くの従者が従いました。

私は、日本で禅宗が最初に栄えた古都鎌倉に生まれ育ちました。小学校時代に同級生が、自分の祖先は13世紀頃日本にやってきた中国人で、何かの職人か職工だったと言っていました。日本の禅宗五山の一位であった建長寺、二位の円覚寺の門前には、今でも、当時渡来した中国人の子孫の方々が暮らしているのです。

鎌倉時代から室町・安土桃山時代の400年間、日本に移入した外来文化のすべては、径山萬壽寺からやってきたと申し上げても過言ではありません。とくに、世界最高峰の宋代文化は、日本文化に圧倒的な影響を与えたのです。

 

17世紀には、二度目の、中国文化流入の大きな機会がありました。清朝による満州族の支配を逃れて、隠元隆琦とその一派が、明朝末期の臨済宗を日本に伝えたことです。

隠元隆琦は、黄檗山万福寺から出ていますから、その源流は径山萬壽寺です。隠元隆琦に前後して、多くの僧侶、職人、職工がやってきて、多くの文化を伝えました。日本を代表する枯山水庭園として国際的に有名な、龍安寺の石庭も、径山萬壽寺のコピーだというのですから、その影響力の大きさが分かります。

 

禅文化は、そのようにして日本に伝えられました。

日本にも、日本独自の文化があります。自然に対する愛着は、中国人に劣らないと思います。しかし、禅宗は日本人の気質に実によくなじみ、日本人の自然観に形を与えました。

インドから中国に移入され、自然学を融合して発展した禅宗が、その後日本に移入されて、日本独自の文化に融合し、中世日本文化を形作りました。能をはじめとする芸能、書画、茶の湯、庭園・建築、すべてに深い影響を与えました。久松真一という評論家は、禅の美を、「不均整」、「簡素」、「枯高」、「自然」、「幽玄」、「脱俗」、「静寂」の7つに分類しました。これこそ、「日本人のこころ」というべき美意識です。禅文化は、このように日本文化に深く根を下ろしたのです。

中世から近世に確立された日本文化に、形を与えたとされる茶の湯もまた、圧倒的な禅の影響下にあります。そのすべてが臨済禅である、と言っても過言ではないでしょう。

しかし、輸入された禅宗にとって、座禅修行こそが重要な本質でした。

庭園は、さきほど見ていただいた大徳寺大仙院の枯山水庭園のように、和尚の居室である書院の前庭、あるいは、客殿の居室の前にしつらえて、厳しい修行の合間に、心と目を休める庭園を造る、という位置づけであったと思います。

 

■日本禅の庭

日本において、庭園が禅宗にとって、きわめて重要な位置を占めることになったのは、夢窓疎石(1275-1351)という日本人の高僧が、庭園造型を愛したからでした。夢窓疎石は庭園造型になみなみならぬ情熱を注ぎ、京都を中心にしたいくつかの禅宗寺院に、日本庭園史上特筆すべき庭園を造型し、その技術もまたきわめて秀でていました。

芸術という観点から見て、日本の鎌倉時代(11851333)は彫刻の時代、室町・安土桃山時代(13331600)は、庭園の時代と評されます。

鎌倉時代には、中国から渡来した、運慶・快慶という天才的な彫刻家が優れた仏教彫刻を多数残しました。鎌倉の鎮守の神様である鶴岡八幡宮の入り口には、運慶・快慶の子孫が、今も、木彫を製作して暮らしています。

 庭園造型に関して、中国からの影響を考えると、鎌倉時代に、日本禅宗五山一位の地位にあった建長寺の開山である蘭渓道隆が、霊隠寺の流れを汲んでいる点があります。蘭渓道隆の師は、無明慧性(1162-1237)、無明慧性の法嗣は松源崇岳(1132-1202)で、松源派の霊隠寺は、中国禅宗庭園文化の中心地であったと言われています。庭園に対する趣向は、この流れで日本に伝えられたと考えられています。しかし、現在では当時作られた庭園の歴史的遺産は、特に伝えられてはいません。

やはり、日本の禅宗と庭園の歴史において傑出しているのは、夢窓疎石です。

夢窓疎石は修業時代に、日本禅宗五山一位の建長寺第十世一山一寧に学び、無学祖元の孫弟子でもあります。無学祖元は、破庵祖先の法を継ぐ破庵派で、その師は有名な無準師範ですから、径山萬壽寺の流れです。日本の禅宗の最高位にあった高僧が、禅宗寺院に庭園を造ったために、日本では、庭園文化は、禅宗と深く結びつけて語られることになりました。

 もう一つは、龍安寺という禅宗寺院の方丈前庭に、禅宗の影響下で作られた枯山水庭園が、実に完成度が高く、日本人の好みに合って、高く評価されて来たことに起因します。

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歴史的には、この枯山水庭園は、日本庭園史を、突然、革命的に変えました。石と砂で作る枯山水庭園はそれまで、山水画を具象的に映す様式でした。しかし、龍安寺の枯山水は、現代美術のように抽象的で、瞑想的です。禅の研究者は、白砂と石組みのみで構成されている龍安寺の枯山水が、最高のものと評価し、日本の庭園史家は、この庭園の完成度の高さを誇り、日本独自の様式であると語り続けてきました。しかし、江戸時代中期の庭園論書「築山山水伝」には、龍安寺の石庭は、「唐の径山寺の写しである」と書かれています。この時代の中国は明末清初にあたりますが、日本人は一般に中国のことを唐と呼ぶことがあるので、「唐の径山寺の写しである」と言っているのです。私は、この資料を重視して論文を発表しました。詳述は控えますが、状況から見て、17世紀に来日した、隠元隆琦の一派が深く関与して製作したと考えられます。

それでは、明末の径山萬壽寺は、庭園の造型を重視していたのでしょうか。

日本の庭園史家は、枯山水庭園に、無の思想、余白の思想など、禅の奥深い主題が読み取れると言います。径山萬壽寺に、禅の思想を映す真剣な庭園があったかとの問いに対し、私は、それはなかったのではないかと思います。それよりも、径山萬壽寺にとって重要なことは、宋代禅宗が、中国自然学を昇華した「山水」を代弁していた点にあると思います。山水は、中国文化の中で、至高の地位を占めています。庭園の技術、あるいは、様式、という、時代に応じて変遷していく類のものではなく、東アジアに普遍的な自然学理念としての山水です。中国の禅は、東アジア全域に山水を自然学として輸出しました。臨済宗だけでなく、曹洞宗もまた山水を重要視しました。日本に曹洞禅を移入した道元は、山水経という経典を執筆しています。そして、日本を中心とする国々は、この思想を深く受容したのでした。

中国は不思議な国です。中国の文明が過去に世界で最も栄えたのは、宋代だといわれますが、その時代には、すでに、現代社会が築き上げてきた技術、思想、文化などのすべてが、中国にあったといわれます。宋代の径山萬壽寺は、その原動力でした。そしておそらく、宋代の径山萬壽寺境内は、風水を生み出した山水の思想に則って計画されていたはずです。径山萬壽寺という山水都市の中で、和尚の住居や、客殿の周囲には、目と心を休める造形美としての庭園も造られていたことでしょう。それらは、山水の自然学に則り、環境に従う、山水城市計画の結晶であったと考えられます。その全容を明らかにする必要があります。

山の稜線では、地下水位が低く乾燥するので、植物が豊かに生育できません。ですから、天目山ならではの眺望を提供する客殿の庭園が、石と砂の造型であったことは、大いに推察されます。そこは乾燥地ですから、緑の樹木はせいぜい松があった程度でしょう。風衝地であれば、石で囲いを作ることもあるかと思います。龍安寺枯山水の原型となった石の庭園は、ここにあっただろうと推察されます。

宋代から明代にかけて、径山萬壽寺は、禅と山水の最高学府だったのです。中日禅の庭園文化の基層は、山水にあると申し上げたいと思います。

 

■庭園都市計画家について

 ここで少しだけお時間をいただき、私の職業である、庭園都市市計画家について、話をさせていただきたく存じます。

私が庭園都市計画家として従事してきたのは、住宅団地、商業施設、美術館などを、庭園造型の思想と技術を踏まえて計画する仕事です。

計画ですから、表面の意匠だけに関与するのではありません。多様な与件を理解し、有効に組み合わせ、優れた結果に結びつくように組織する、マネジメントの仕事も含みます。難しい仕事ですが、常に、企画家であり、演出家でもあることを目指してきました。

庭園都市計画家という言葉は、私自身が作った造語なので、日本で庭園都市計画家を名乗っているのは、私一人です。

はじめに、なぜ庭園都市計画という言葉を作ったか、その理由を簡単にご説明いたします。

 

私は、近代建築学も修めました。近代建築学という学問は、近代の申し子で、工学の言語と方法で、人間がかかわる環境のすべてを支配することをめざしています。近代思想は、宋代の中国にも、江戸時代前期の日本にも誕生したので、正確に言えば、「西洋近代」の申し子だと言うべきでしょう。しかし、西洋に誕生した近代には、自然学が薄弱ですから、歯止めがききません。自然学の道理が機能しないので、西洋近代科学は、実に侵略的な思想です。全体に対する意思が欠如しているのです。だからこそ世界に波及する力も強かった。つまり、自然学がないということは、砂漠でも、北極でも、どこでも一般化されうる工学に収斂する、ということですから、世界を一元的に支配しようとする。自然学が求める多様性とは対極の思想がここにあります。工学以外には、美学を駆使しますが、世界共通の数学を基にした工学の言語で、この世のすべての設問に立ち向かうのです。

人類は、人がこの世に生きる意味、喜び、自然から学ぶ知恵、教訓を導くために、長い年月を費やして、宗教、哲学、文学、芸能、工芸、芸術、等々、さまざまな方法を追求してきました。リベラルアーツと申しますが、大学では教養学と称し、総合的な人間力の向上が求められるのです。しかし近代工学は、それらのすべてを工学と科学の言語と技術に置き換えてしまいます。日本語や中国語も、五言絶句も俳句も、世界標準ではありませんが、工学の言語は世界共通だからです。現在の日本で、国立大学から人文科学を放逐して、自然科学と工学だけを教えるように指導が進んでいるのも、近代工学と科学信仰が原因です。しかし、工学だけですべてを解決し支配するという思想は、野蛮な妄想にすぎません。徒手空拳で、ゴジラ退治に立ち向かうようなものです。一見、とても勇壮でかっこいい姿に思えるかもしれませんが、実際には不可能で、幼稚です。壮大な世界のごく一部に関与しているにすぎません。無理なことを力づくで押し通すから、被害者が出ます。私自身は、そのような仕事をしたくはなかったのです。

近代建築学に酔いしれる建築家が持っている世界観は、現代の科学者が、科学的な方法で検証された現象だけが、この世に存在していると信じている、あるいは、科学者が、地球も、自然も、人間も、すべて人間の力で作り出すことができると豪語しているようなものなのです。それが、西洋の自然観の根源であると言えます。

近代社会を築くために、近代建築に巨額の資金を投じるので、近代建築家たちは、権威をふりかざし、近代建築学の優位性を喧伝します。工学が科学と同様に、日進月歩で進歩を続けていることで、私たちの生活が快適なものになっていくことは、認める必要があります。しかし、そこには、全体と本質を理解しよう、語ろうとする意志が欠如していることに、注意しなければなりません。

 

私は学生時代に、慶応義塾大学で経済学を学びました。学ぶのは欧米の理論ばかりで、教授連中は、欧米の科学の紹介に明け暮れるので、辟易としました。日本は東アジアに位置するのだから、中国や韓国、東南アジアの国々との交流を主とすべきであると考えましたが、しかし、そんなことを考えている教授連中は、せいぜい文学部の中国文学科の数人だったと思います。

しかし、私は私自身のものの見方の中に、物事の本質と全体を直感的に把握しようとする、いわば東洋的な体質を強く感じていました。分析におぼれて狭い視野に陥ることは、人間として卑屈な態度だとすら感じていました。

 

私は1955年生まれですから、今年で60歳を迎えます。子供のころは高度成長期でしたから、日本社会は少しの間目を離しただけで、あっという間に風景を変えていきました。日本は戦後の貧窮から抜け出すために必死だったのです。近代化はどんな僻地の小さな集落でも、テレビのスイッチを入れれば、東京のど真ん中と同じ情報を同じ時刻に手に入れることを可能にしました。近代の優れた点は、まさに、どこででも同じものが手に入れることを可能にしたことにあります。

しかし一方で、日本は戦後米国の支配下に置かれたので、近代の名のもとに、米国は日本民族を米国の世界戦略に巻き込み、米国好みの国家に作り替えて、米国製品の市場として食い物にしてきました。近代の効用の中に、抜け目なく米国の利益を忍ばせることに成功したのです。

比較文化研究では、西洋と比較して、東洋は自然に対する畏敬の念が強いとありました。人間は自然に支配されていて、別の言葉を使えば、人は自然に生かされているのだから、自然の道理を悟り、自然と一体化して生きられれば、この世の本質を生きることができると考えます。詩人も、芸術家も、音楽家も、哲学者も、そして宗教家も、自然に対する、圧倒的に優れた考え方をしています。自然こそが普遍なのであって、人間は未熟な存在であるという思想が、東洋の思想です。

しかし西洋人は、前述したように、人間が自然を支配している、人間の方が自然よりも優越していると考える人間中心主義です。とても違和感があると言わざるを得ません。

西洋にも、優れた思想は存在します。ニューヨークのマンハッタンに、セントラルパークという深い森の公園を作った思想は、実に優れたものです。17世紀英国の哲学者フランシス・ベーコンが、庭園論の中で、庭園には必ずwildernessの領域を設けよ、つまり、人が手を付けられない荒野を作れと訴え、それを後世の庭園芸術家たちが踏襲していったことも、人間が生き延びる条件を訴えた点で秀逸です。しかし、西洋社会の中枢を支配しているのは、科学主義、工学主義です。私は、鉄とコンクリートとガラスを駆使して、すべてを人間の支配下に管理する建築都市計画の思想は野蛮だと考え、与したくないと思いました。自然学に軸足を置いて都市を計画することを、私自身の都市計画の目標に定めたのです。

自然との深い関係を意味する言葉として、庭園都市計画を選択したのですが、その本質は、山水都市計画でした。中国語では、山水城市設計師ということになりましょうか。この講演の冒頭でも申し上げましたが、山水は、東アジアの文物の至るところに登場します。文学、美術、工芸、庭園建築、宗教、等々、実に至るところです。ところが、現代の学問が、西洋近代の学問体系に支配されているためでしょう、これだけ深く広く東アジア文化に浸透している山水は、現代では、学問ですらありません。最近、風水学について語る人は登場しました。しかし、その風水学を生んだ山水学は、機能していないのです。ですから、山水都市計画と称しても、人々は理解できないと考え、人々になじみのある言葉の庭園を選択して、庭園都市計画と名付けたのでした。

 

■山水

最後に、山水論について少々語り、本講演を締めくくりたいと思います。

自然観・・・私は自然観こそが、人間の価値を示す、決定的な思想だと考えています。自然というものを、どう見るか。支配できると考えるのか、自然の中に人間を律するものがあると考えるのか。自然が悪を淘汰するから、この世に悪は栄えないのだと考えるのか、それとも、得をするためには悪も顧みないとするのか。

 禅者にとっては、自然そのものが仏でしょう。自然とは、この世の道理そのものであり、また、自我と自然の道理が一体化した「自然な人柄」を指し、その人柄を尊敬の対象とするのが禅者です。

日本の村上華岳(1888-1939)という画家は、「仏陀是山水、山水是菩薩」と言いました。山水こそが、人を生かし、人を律し、人を慈しむ、この世界の本源であり、世界のすべてであるという哲学です。

径山萬壽寺の境内は、山水城市計画の結晶であったと推察いたします。清朝に造営された避暑山荘も、この山水城市計画の圧倒的な影響下にあったはずです。日本の「別荘」という明治時代に流行した保養地の都市計画もまた、同様でしょう。私は、この径山萬壽寺から大いに学び、山水都市計画の道理を世界に主張したいと考えています。

 

私は、浙江工商大学に客員研究員としてご縁をいただき、時折中国を訪問させていただく機会を得て常々、中国は、国家と文化をアメリカ化されることに抵抗し、成功している稀有な国だと感じています。中国も日本も、米国の世界戦略に巻き込まれないように、民族の思想をしっかりと保持する必要があります。私は、山水という思想、つまり、東アジアの自然学、これこそが、東アジア民族の独自性を保つ支柱であると考えます。

 

さきほど申し上げたように、私が調べた限りでは、中国にも日本にも、山水学という学問がありません。学問領域が、西洋近代科学の学問体系に支配されてきたからではないでしょうか。しかし、これだけ、東アジアの根本に深く根差している主題です。学問領域を横断して、総合的な山水学樹立に向けた作業を開始すべきです。

日本国内で様々な機会に、この主張を続けてきましたが、今のところ、山水学研究を引き受けてくれる研究機関、あるいは、研究資金を提供する機関は見つかっていません。中国でどなたか心ある知識人が、この主題を共有して、研究を開始してくれることを祈ります。皆様もぜひ、禅宗研究の一環として、山水学研究を脳裏においていただけるようお願いして、本講演を終了したいと思います。

 

ご清聴ありがとうございました。

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