茶禅一味・枯山水

2017.09.18
第六巻 中国行路

 20151017日、浙江省の仏学院、いわゆる佛教大学の大学院に招かれて、枯山水について講演をした。私が、臨済宗第一位径山萬壽禅寺の復興計画に監修者として関与している縁である。以下はその時に読み上げた原稿。径山萬壽禅寺に、打ち合わせで滞在している折に、急遽依頼された講演で、10月15日に、西湖畔の仏学院に隣接する霊隠寺の客殿に下り、2日間で書きあげて講演に臨んだ。通訳に非常に優秀な尼僧がつき、すばらしい翻訳をしてくれたおかげで、講演後、学生たちから果てしない数の質問が寄せられて、手ごたえのある講演だった。

 

■はじめに

 

私の仕事は、庭園都市計画家、中国で言えば、山水城市設計師です。

商業施設、住宅団地、美術館、住宅、日本庭園、等々を企画計画する仕事で、「山水」という自然学の理念に基づき、風水学の方法、生態学の知識、庭園建築学、等々を活用しながら、人間活動と建築を、自然と融合させることを目標にしています。

私は、6年前から、浙江工商大学日本言語文化学院に、客員研究員として在籍し、「山水学」について、少しずつ研究を進めてきました。東アジアの人々の暮らしの、至るところに登場するアイコンとしての山水が、総合的な学問として整理されていない点に興味を抱いていたからです。山水という概念が、禅宗によって東アジア全域に広まったことも分かりました。

 

私は、古都鎌倉に生まれ育ち、6年前までずっと鎌倉に暮らしました。

学生時代には、禅宗五山一位の建長寺の中の学習塾に通いました。蘭渓道隆が開山の臨済宗本山です。私の一族の墓地も、建長寺派の末寺にあります。

学校のクラスメートには、お寺の住職の師弟や、13世紀に高名な中国人僧侶に従ってやってきた中国人技術者の子孫もいました。あるお寺の住職が、副業として中学校の英語教師をしており、私のクラス担任だったこともあります。仏教の中でも禅宗は、とてもなじみの深いものだったのです。

 

5年前、浙江工商大学の江静教授から勧められて、径山萬壽寺に行きました。日本の中世と近世の外来文化は、すべて、中国の禅宗寺院からやってきたと言っても過言ではありません。特に、径山萬壽寺は、日本に大きな影響を与えました。日本における禅文化は、多くの禅林修行者を生み出しただけでなく、広く民衆の生活に浸透しました。それは、禅宗文化が茶の湯の文化に昇華され、庭園文化に姿を映したからだと考えられます。

私は時々、お客様を招いて茶会を催しますが、成人してから茶の湯を習い始めたころ、茶の中の建築、道具、作法等々の多くが、深く臨済禅を出自としていることに、大変驚きました。

商業施設の再開発を依頼された際に、施主と十分に話し合ううちに、施主が、茶の文化に深い憧れと愛着を持っていることが分かり、その企業文化の核として、茶室と露地を作ったこともあります。日本人の生活の中に、禅の文化が深く浸透している所以です。

 

最近、浙江工商大学東洋言語学院の江静教授から、宋代・元代に浙江省に留学した日本人僧侶に関する研究書に協力を求められて、資料を読み始めました。私たちの遠い祖先は、世界最高峰の中国文化に触れて圧倒され、切実な思いで研究にまい進しました。今年60歳になる年齢になって、その気持ちがよく分かるのです。

江静教授は、径山禅宗文化研究所の所長も務めていらっしゃいますので、その一環で、私は、庭園都市計画家として、径山万寿寺の復興計画への協力も手掛けています。ここでは、四頭茶会を開く茶亭が主題の一つです。

 

今日、私はみなさんに、主に「枯山水」について語りたいと思います。

先月915日、私はこの同じ仏教学院で「庭園文化・禅・山水」という題で、講演させていただきました。庭園文化と、禅文化の中で、山水という東洋的な理念が実に重要な役割を果たしていることをお話ししたのです。多くの方々から反響をいただき、その中には、特に、枯山水に関するご意見が多くありました。中国の方々にとつて、枯山水は大きな興味の対象であることが分かったのです。ですから、枯山水について、もう少し詳しくお話しする機会がほしいと考えていたところに、一昨日、径山萬壽寺の戒興住職から、このような貴重な機会をいただき、ありがたくお引き受けいたしました。

頻繁に杭州を訪れる庭園都市計画家が、普段、禅と茶と枯山水について考えてきたことを、整理してできるだけ分かりやすくお話ししたいと思います。

なにとぞ、宜しくお願い申し上げます。

 

■「松林図屏風」

 

今、みなさんがご覧になっているのは、16世紀末期に、日本の長谷川等伯という画家が描いたとされる、「松林図屏風」です。長谷川等伯は、室町時代末期から江戸時代初期に活躍した絵師です。

西暦2000年に、NHK日本放送協会が日本で、日本美術史上、最も愛する美術に関するアンケートを行った結果、一位に選ばれました。

みなさんは、この絵に何をお感じになりますか?

霧にかすむ茫漠とした空気の中に、ぼんやりと松の木が見えます。ただそれだけの絵ですが、美意識、哲学、スタイル、技術、その他、この絵のすべてが日本人の好みです。

 

■「煙寺晩鐘図」

 

この絵はご存じでしょうか。

牧谿が画いた「煙寺晩鐘図」です。

牧谿とは、宋末元初に中国で活動した絵師で、特に室町時代の日本では、圧倒的な人気を誇りました。牧谿が日本に来たわけではありません。その絵が数多く輸入され、愛されたのです。現在では、国宝に指定されている絵がいくつもあります。

富裕な貴族や士族は、茶会に、牧谿の絵を飾ることが、ステータスだった様子が、群種類従に収められた「禅林小歌」、「喫茶往来」に書かれています。これらは、室町時代の古文書です。

 

この二つの絵に共通するのは、省略とぼかしの技術、その結果描かれる、「湿潤」と「温暖」、つまり、中国の江南と、日本に共通する風土です。

 

これはいかがでしょうか。

「不均整」、「簡素」、「枯高」、「自然」、「幽玄」、「脱俗」、「静寂」

久松真一という評論家は、禅の美を、「不均整」、「簡素」、「枯高」、「自然」、「幽玄」、「脱俗」、「静寂」の7つに分類しました。

今ご紹介した二つ絵画と、この、禅の美の定義は、深く結びついています。

西暦2000年においてすら、長谷川等伯の「松林図屏風」が、日本人の美意識の人気ナンバーワンに選ばれたのです。禅の美こそ、「日本人のこころ」というべき美意識だということになります。

日本は第二次世界大戦後、アメリカの占領下におかれ、アメリカの市場として収奪される過程で、すっかり、本来の日本を見失ってしまったと考えられています。

しかし、禅文化は、今でも、日本人の美意識として、このように日本文化に深く根を下ろしています。民族の深層心理というものは、簡単に消えてなくなることはないのです。

 

■枯山水

 

 それでは、庭園文化として、日本固有と評される枯山水について、考えてみます。

 

 人間は、世界中どこでも、石を立てるという文化があるように思います。特に古代人は、祭祀の場を作るために石を立てました。世界中にストーンサークルというものがあり、日本の縄文時代にも、各地に作られた痕跡があります。石が何らかの磁場を作ると考えられます。

 縄文時代に、炭が、乾電池の炭素棒のような円柱形で地中に埋められ、今でも稲を生産している水田があるそうです。その炭の炭素棒は、直径60センチメートルほど、深さ1メートルほどもあり、それが、格子状に規則的に埋められている水田では、今でも農薬なしで高い収穫量を誇っているという報告書を読んだことがあります。それも、微弱な電極が生み出す磁場が、有効に働くのだと説明されています。

 現代の科学では説明しえないことだそうですが、それは、石の場合も同様でしょう。

 近代科学では説明できないが、人は石を立てて、地の力を得てきた。庭園の最初は、石を立てることだったと考えられます。

 

この毛越寺の浄土式庭園は、9世紀に作られたと考えられています。

庭園文化は、言葉を持たなかったので、ここまではありのままを受け入れるだけです。

しかし、同じ平安時代に、「作庭記」と称する庭園技術書が書かれ、その中で、枯山水という言葉がはじめて使われています。

丘、あるいは、築山の裾の、鑓水のないところに石を組む、それを枯山水と称する、という記述です。

「作庭記」と題した書物の中の記述ですから、庭園としての石組みに間違いありません。はじめて、枯山水が日本の文化の一つとして登場したと言えます。しかし、ここで強調しておきたいのは、ここで言う山水は、自然学の山水ではなかった。中国に生まれ、禅宗とともに東アジアに伝播した自然学「山水」は、この時点ではまだ、日本には届いていなかっただろうと考えられます。この時点で枯山水は、「山の水が枯れている石組み」というほどの、文字通りの表現だっただろうと考えられるのです。

枯山水が、禅宗の庭園文化として成熟していくためには、この土俗的な枯山水が、禅宗の神髄ともいえる自然学「山水」と出会う必要があるのです。その出会いが深く共鳴するのは、中国が元から明に移り、日本が鎌倉時代から室町時代に移ってからのことであったと考えられます。

 

さて、「作庭記」に描かれた枯山水について、日本の庭園史家は、夢想礎石(1275-1351)が作った、一般に苔寺と称される西芳寺の上段、指東庵の東側にある枯滝石組みが、それであると評価しています。

ここで、夢窓疎石が生きた鎌倉時代の庭園史について、簡単に整理しておきます。

 

芸術という観点から見て、日本の鎌倉時代(11851333)は彫刻の時代、室町・安土桃山時代(13331600)は、庭園の時代と評されます。

鎌倉時代には、中国から渡来した、運慶・快慶という天才的な彫刻家が優れた仏教彫刻を多数残しました。鎌倉の鎮守の神様である鶴岡八幡宮の入り口には、運慶・快慶の子孫が、今も、木彫を製作して暮らしています。

 庭園造型に関して、中国からの影響を考えると、鎌倉時代に、日本禅宗五山一位の地位にあった建長寺の開山である蘭渓道隆が、霊隠寺の流れを汲んでいる点があります。蘭渓道隆の師は、無明慧性(1162-1237)、無明慧性の法嗣は松源崇岳(1132-1202)で、松源派の霊隠寺は、中国禅宗庭園文化の中心地であったと言われています。庭園に対する趣向は、この流れで日本に伝えられたと考えられています。しかし、現在では当時作られた庭園の歴史的遺産は、特に伝えられてはいません。私は鎌倉に生まれ、50年以上も鎌倉に住んだのですが、秀でた庭園として知られているのは、夢窓疎石が鎌倉にいた時代に作ったとされる、瑞泉寺庭園くらいだったと思います。

 

日本において、庭園が禅宗にとって、きわめて重要な位置を占めることになったのは、夢窓疎石という高僧が、庭園造型を愛したからでした。夢窓疎石は庭園造型になみなみならぬ情熱を注ぎ、京都を中心にした、いくつかの高名で力のある禅宗寺院に、日本庭園史上特筆すべき庭園を造型し、その技術もまたきわめて秀でていました。日本庭園史上のスーパースターと言っても、過言ではありません。

夢窓疎石は修業時代に、日本禅宗五山一位の建長寺第十世一山一寧に学び、無学祖元の孫弟子でもあります。無学祖元は、破庵祖先の法を継ぐ破庵派で、その師は有名な無準師範ですから、径山萬壽寺の流れです。

日本の禅宗の最高位にあった高僧が、禅宗寺院に庭園を造ったために、日本では、庭園文化は、禅宗と深く結びつけて語られることになりました。

 

それでは、夢窓疎石が作った、西芳寺庭園のことに話を戻します。

苔寺と呼ばれますが、鎌倉時代には、池泉回遊式庭園で、茶室などの亭がいくつかありました。その後、荒れて、湿潤な京都の気候によって苔に覆われたのです。

枯滝と申し上げた石組みは、苔の庭より一段高い位置にある、指東庵という座禅修行場にあります。

この指東庵の西側に、一石だけ、天板が平らな石があり、これを現在、座禅石と呼んでいます。

それでは、この枯滝は、指東庵で座禅する僧侶が眺める庭園の景色として、作られたのでしょうか。

 

夢窓疎石が生きた鎌倉時代よりも後の、室町時代に作られた代表的な枯山水庭園は、方丈の書院の前、つまり、住職の居室の前に作られ、住職が寝起きしながら目を休める意図で作られています。

指東庵は座禅を組む修行の場ですから、そこから見える正面に、枯滝を作る意図は何だろう、という疑問です。何のために枯滝を作ったのか。しかも、組んである石の天板は、ほとんどが平らです。これは、意図的にこのように組んだと考えるのが自然です。

 

一昨年、201310月、径山萬壽寺で開催された、大慧禅国際学術検討会議に出席した際に、径山萬壽寺から頂戴した「径山悟禅」と題した日本語のDVDを見て、私は、アッと声をあげました。径山萬壽寺の僧侶が、枯滝で座禅を組んでいます。径山萬壽寺にある、蘇東坡の筆洗いの池のほとりです。宋代から元代の中国の禅寺で、枯滝をこのような修行の場として使っていたとしたら、その情報は、当然、鎌倉時代の日本に伝えられたでしょう。夢窓疎石が、修行の場としての枯滝を組んだとすれば、この石組みの意味は、とても妥当性があります。積年の設問が解けました。

「用の美」という言葉があります。鑑賞するだけでなく、使い勝手が良く、しかも、美しい。庭園では、道行きを楽しむ露地庭園、風景を楽しむ池泉回遊式庭園の小路、この枯滝もまた、修行に使う石組みを美しく組み立てる、それが庭園造型だと考えて良いと思います。

平安時代の枯山水は、山裾に石を組んだものだったが、鎌倉時代には、禅宗の影響下で、その技術を修行の場としての枯滝に応用したことになります。

夢窓礎石の庭園には、京都の天竜寺庭園も有名ですが、池の向かい側正面に、やはり枯滝があります。これもまた、修行のための枯滝を兼ねていると考えると、庭園に託した意図がより豊かに膨らんでいきます。

鎌倉時代は、日本の歴史上はじめて、武家が権力を握った時代です。戦乱に明け暮れる時代に生きる武士の、荒れた心を鎮める宗教として、禅は、為政者から強い支持を得ました。しかし、日本の文化全体により深く浸透するようになるには、さらに長い時間が必要だったのです。

 

それでは、枯山水は、庭園の時代とされる室町時代に、どのように変化していったのでしょうか。

大きな変化というものは、民族文化の中からは、自然発生的に生まれにくいものです。

外からやってきた大きな刺激が、民族文化の形に、改革、あるいは、革命を起こす原因となります。当時、世界最高の文化を誇った先進国中国から届く文物は、圧倒的な影響力を持ったのです。

日本では、日本の中世、近世の文化は、すべて、禅宗五山からもたらされたと評価されています。禅宗がもたらした文化の中でも、日本文化にもっとも深く影響を与えたのは、茶と山水です。

茶は、生活文化の総合芸術です。庭園、建築、装飾、工芸、芸術、食、文学、禅、書、芸能、作法、言葉遣い、その他、生活を構成するすべての要素が包含されます。真行草と、公的な表現から、私的な表現まで、3段階で表し、最も公式な「真」は、中国の様式を借りています。日本の禅寺が、宋代から明代に中国から学んだことを、今でも全くそのまま継承しているように、真の茶もまた、宋代の臨済宗の様式を継承しているのです。

床の間の掛軸に、禅僧の墨蹟を飾る際には、拝見したお客様は、墨蹟に対して深々と頭を下げます。墨蹟の禅語は、茶席で話題にされ、その意味を語り合い、禅の心を学ぶ機会とします。

茶の湯をたしなむ者にとって、茶禅一味とは、禅の心を、茶の席を通して自然に身に着けていくことが第一歩です。

 

一方、山水は、中国文化の中で、至高の地位を占めています。

孔子は紀元前5世紀に、山水欣賞について語りました。中国では、古代から自然を求めたのです。自然学は、中国人の本源的な思想回路の中に組み込まれた優れた資質であります。道士は独自にこの道を追い求め、自然学は宋代に入って禅宗と出会うことで、山水の言語に統合されたと考えられます。

山水は、現在、東アジア全体に広く存在し、しかも、芸術、工芸、宗教、哲学、庭園、文学、あらゆるメディアに登場します。汎東アジア的な、世界観とでも申しましょうか、ものの見方、考えかたであります。この山水を、東アジア全域に広めたのは、禅宗です。禅の本質と山水は、重要な関連があるのでしょう。

山水画は、美術作品だけでなく、茶碗、箸、襖、衣装、掛軸などの工芸品にも、どこにでも描かれていますが、それは造型としての山水です。山水の本質は、あくまでも、考え方にありますが、主題としての山水は、実に様々な造形文化に結実しています。

庭園もまた、山水を主題とした造型です。

人が山水庭園を造形する理由は、山水の造型がその場所に良好な気を生み出し、暮らしの環境を整え、それを眺める人間の胸中にも、優良な気が生まれると考えるからです。

 

私の職業である庭園都市計画家は、山水都市計画家とも言えます。つまり、住宅、商業施設、病院や学校、その他、人々が集住する施設を、山水の理念に基づいた庭園都市として造型する仕事です。現代の科学では、生態学をしばしば応用しますが、科学の世界では、生態学は科学ではないと非難する科学者もあります。山水とは、自然学ですが、生態学もまた自然学を目指しており、自然を語ろうとすると、西洋的な科学では表現できないからです。

私は現在、北海道の自然豊かな土地に、「山水別荘」と題した、自然学研究所を経営しています。その中には、畑と牧場があり、秋になると、来年の春の種まきのために、仲間たちと畑の土を耕すのです。生態学的には、私と研究所のスタッフがこの世から消え去り、畑の土地を放棄したまま誰も手を加えなければ、数百年で、原始の森に帰ると考えられています。ゴビ沙漠も、サハラ砂漠も、人間が、焼畑と林内放牧で、森を砂漠に変えてしまったのですが、この広大な砂漠でも、人間さえこの地上から消えてしまえば、長い年月を経て、確実に原始の森に帰ります。

人間は、この力を借りて、この地上に生きながらえていると考えられるのです。畑の土と植物を見つめながら、私は、「いったいこの力はどこから来るのだろうか・・・」と独り言を言います。 

「この世に悪は栄えない」と申しますが、大地を修復していく大きな力は、長い時間をかけて、悪をこの世から駆逐する力と同じものではないのだろうか。

禅の修行者が心を無にして、自らの存在を預けたいと考える、この世の偉大なる知恵と力、この大地の自然を絶えず修復し続けていく大きな力を、人は古来より、神と呼んできたのではないか。

造型としての自然は、ブルドーザーが一台あれば、一夜にして、見るも無残な荒地と化してしまいます。物事を表面だけ見れば、人間の力は、自然よりもはるかに強い。だから、人間が自然を支配して、人間の生存に必要なように保護するのだと、西洋人は考えているのだそうです。

しかし東洋では、人間が、目に見えぬ自然の力に支配されていると考える。真実は目に見えません。人間は、か弱く見える自然に支配されているのですから、自然山水に対して謙虚に頭を垂れ、かすかな声にじっと聴き耳を立てて、真実の声を聞き取る努力する必要があります。

山水という理念の重要性が、ここにあります。

山水は、本質的には、理念、悟り、世界観です。この世の総体と、本質を、同時に一言で言い表すと、「山水」ということになる。これは、きわめて東洋的な考え方であります。

西洋では、科学が、世界の本質を説明する方法としてのパラダイムを形成しています。それは極めて分析的な方法論です。一方で、私たち東アジアの文化は、全体を総合的に把握するために、物事の本質を簡潔に表現する努力を続けてきました。この世の本質は山水である、これが、東アジアに暮らす私たちがたどり着いた真実なのです。西洋近代科学も必要ですが、物事の全体と本質を簡潔に表現する、東洋の英知もまた必要です。この考え方が、偏った西洋文明を乗り越える道を切り拓くと、私は確信しています。

私は、私の自然学研究所「山水別荘」を訪れる人々に、この山水の考え方と、科学としての生態学について、しばしば講義します。当然、分かる人と、わからない人がいますが、この差ははっきりと出ます。もちろんわからない人が多い。東洋と西洋の違いは、この比率の違いかも知れぬと思うことがあります。あるいは、分かりたいと思う人の数の差でしょうか。

 

枯山水の主題に戻ります。

枯山水という、日本の民族的な言葉と、石組みの造型手法が、中国からもたらされた「山水」自然学と出会うのは、鎌倉時代後期から室町時代前期であっただろうと考えられます。

庭園は造型ですから、技術、美意識、様式などで表現されます。一方の山水は、観念であり、悟りであり、理念です。哲学、思想と言っても構いません。造形は、結果として形に表れます。庭園造型の背後に、理念としての山水が隠れている、あるいは、山水を表現の主題としている、そう理解してください。

さきほど、人が山水庭園を造形する理由は、山水の造型がその場所に良好な気を生み出し、それを眺める人間の胸中にも、優良な気が生まれると考えるからだと申し上げました。

この写真は、日本の室町時代後期、つまり、15世紀から16世紀にかけて、京都にある臨済宗龍寶山大徳寺の塔頭である、大仙院の方丈北東部に作られた枯山水庭園です。

奥山から湧いた水が、滝を落ちて流れとなり、人里を巡って、海に流れ込む情景を、石と砂利で具象的に表現しています。方丈は和尚の居室で、特に北東部の書院は和尚が寝起きする居室です。和尚は、この庭園の山水を日常的に眺めながら、胸中に優れた気を取り入れる、という考え方です。

 

ちなみに、室町時代に誕生した日本庭園の中で、茶の湯にまつわる露地庭園だけは、山水を造型の主題としていません。茶の湯は、径山萬壽寺から鎌倉へ臨済宗が移入されるのに伴って、日本に輸出された文化です。当然、山水の思想は大きな意味を占めています。露地庭園の中では、山水は造型の主題とされませんが、茶席で鑑賞する茶碗、掛軸など、工芸、書、美術、文学を通して山水は語られます。茶の湯の作法は、臨済宗寺院の作法をそのまま取り入れているので、「胸中の山水」という禅宗の理念もまた、茶の湯の中で生きているのです。

 

枯山水の歴史において、室町時代は、具象の時代でした。

そう申し上げると、特に、日本の庭園史家は、龍安寺の方丈前庭の枯山水は、具象とは言えないと反論するかも知れません。実に多くの庭園史家が、この世界的に有名な枯山水を、室町時代の造型であると論じてきました。

唯一、造園家中根金作が江戸時代初期の仕事であると論じ、最近になって庭園史家宮本健二氏も、江戸時代の作であると論じました。

私も、201310月、径山萬壽寺で開催された、大慧禅国際学術検討会議で、「竜安寺の石庭は径山寺の写しなり」と題した論文を発表させていただきました。江戸時代中期に書かれたとされる庭園論書「築山山水伝」に、「りやうあんじ寺の庭に 白すなにかよふの石遣ひ有 唐のきんさんじのうつし也 是虎の子はたしと云作方也 平砂とも云」という記述があります。

江戸時代に入るまで、寺院の方丈前庭は、信者が住職に平伏する儀式の場所だったのですから、庭園を作ることはできなかったはずです。

それに、室町時代には明らかに山水の具象表現をしていた枯山水が、突然、竜安寺のような抽象表現に劇的に変質するには、何か大きな力が働いたはずです。

江戸時代初期に、外からやってきた大きな事件は、隠元隆琦(1592年~1673年)です。

隠元隆琦は、径山萬壽寺の住持であった、費隠通容(1593年~1661年)の弟子です。

来日した1654年は長崎に滞在しましたが、1655年から大阪の摂津に移り、妙心寺派の普門寺に足掛け6年間滞在しました。その時間に、隠元隆琦は費隠通容が編纂した『五灯厳統』を重刻し、『五灯厳統』は、その時代の日本の禅宗僧侶がこぞって読んだとされています。隠元隆琦は、当時の禅宗世界で実に大きな影響力を持ちました。

隠元隆琦が逗留した普門寺の住職に、龍渓性潜(1602年~1670年)という僧侶がいます。

龍渓性潜は、妙心寺の末寺である竜安寺の塔頭を自坊とし、京都妙心寺の首座となった僧侶です。沈滞した妙心寺と、京都の禅宗界を刷新することをめざし、隠元隆琦を妙心寺に招聘するために必死の運動をしましたが、長老たちの強い反対に会って実現しませんでした。その結果、1660年、隠元隆琦を開山とする黄檗山万福寺を建立し、みずから、隠元隆琦の弟子となって、龍渓性潜と名を改めました。

この龍渓性潜が、隠元隆琦の新鮮な影響を受け、しかも、竜安寺に大きな力をもっていた期間が、1655年から1660年の間の5年間です。ですから、竜安寺方丈前庭の石庭は、1655年から1660年の間に、隠元隆琦、あるいは、その一行の技術者、あるいは持参した資料等の強い影響下に作られた、と考えるのが妥当でしょう。

主題も変化しました。

室町時代には、「山水」の象徴的な具象化でした。

しかし、ここでは、「虎の子渡し」です。これは、宋の周密撰「癸辛雑識続集下」にある故事で、虎が三匹の子を生むと、一匹が彪で他の虎の子を食おうとするので、川を渡るときに親はまず彪を対岸に渡し、次いで他の虎の一匹を渡してから彪を連れ帰り、次に残る虎の一匹を渡し、最後に彪を渡したという内容です。これを主題に、双六ゲームのように、石を組みました。その結果、まるで現代美術のような、抽象的で、かつ、瞑想的な傑作が生まれたのです。

隠元隆琦の一派が、何を提供したのか、その詳細は、今となっては分かりません。

竜安寺の石庭と前後して、南禅寺方丈前庭など、「虎の子渡し」を主題とした庭園が、幾つも作られました。しかし、竜安寺方丈前庭園の完成度には、遠く及びません。

日本人は、この石庭をこよなく愛してきました。この講演の冒頭で示した、長谷川等伯の「松林図屏風」、あるいは、牧谿の「煙寺晩鐘図」のように、省略による美の表現の極致にたどり着いたのです。禅宗の修行者は、「余白の美」、あるいは、「無の思想」がここにあると言います。

禅の美を表現する七つの言葉、「不均整」、「簡素」、「枯高」、「自然」、「幽玄」、「脱俗」、「静寂」も、この庭園に当てはまります。

 

時折、竜安寺の石庭のような枯山水を作るにはどうすれば良いか、と問われることがあります。

まず、画家が無数の絵を見るように、文学者がたくさんの書物を読むように、庭園を求める人は、たくさんの庭園を見る必要があります。

はじめのうちは、技術に目が行きます。技術を一通り理解してしまったころには、様々な技法を自由に駆使できるようになります。

求める表現は、スタイルに尽きます。私は、「体」という漢字をあてて理解します。風体、体たらく、というように、その人物の人となりの雰囲気を、「体」に表すこと、それが、表現という仕事です。

ですから私は、仕事を請ける際に、施主との対話をとても重視します。施主が求める「体」が見えてくるまで、「感じ、そして理解する」という仕事に全力を挙げるのです。

「写意山水園」という概念が中国にあります。人の心を写す庭園造型を意味します。その逆に、庭園の心が人に写るという意味もあります。枯山水を眺めて、胸中に山水を写すと申しました。人の心を知り、その人が求めている心を悟り、その心を写す庭園の造型を探す。

奇をてらうと申しますか、軽薄な独創は、意味を持ちません。経験ある技術者の力を借り、他の表現の模倣を積み重ねながら、求める意を表現する体を探すのが、造形の仕事です。様々な仕事を手掛けてまいりましたが、白井隆の代表作は何かと問われれば、明日の仕事と答えましょう。

竜安寺の石庭は、禅者だけでなく、自我に疲れ、自然山水に心を解き放ちたいと願う人々の深層心理を、深くとらえます。径山萬壽寺に、虎の子渡しの故事を石で表した庭があると聞いて、無為の心の持ち主が、造作をしたのではないかと推察いたします。後世に名を残したいなどという、雑念にとらわれた仕事ではありません。

 

その後の枯山水の歴史に、優れた仕事は見当たりません。

枯山水に禅の心を写す造型の仕事は、ぜひとも、新しく復興して活力のある、中国の禅宗寺院が引き継いでいただけることを祈ります。

虎の子渡しの故事に、縛られる必要はないと思います。禅の心の新しい表現を、枯山水に表現するべきでばないでしょうか。

世界の隅々に、禅の心が行き届く日に、この奇跡のように美しい地球が、本来の平和な姿を取り戻す。枯山水を作るということは、そのような願いをこめた作業だからです。

茶禅一味について語ると申しましたが、今日はどうやらその主題にはたどりつきませんでした。茶とは、茶の世界に身を置き、俗事から離れ、世界と自分を観想する心の目を持つことに尽きるのではないかと考えます。この主題については、径山萬壽寺の復興に協力しながら、深く考え続けることになると思います。またの機会にお話しさせていただければ幸いに存じます。

 

最後に、現在の世相について少しお話しさせていただきたいと思います。

日本政府は、現在、中国を敵国に想定し、国民の世論をまとめあげ、世界に誇るべき平和憲法を、しかも、国民が権力を縛るためにある憲法を、政府の政治家が主導して、変えようとしています。

明治維新以降の日本は、西欧帝国主義に侵略されるくらいなら、帝国主義を身にまとい、侵略する側になって、自分の身を守ろうと考えました。その結果、アジア各国に侵略し、しかし西欧帝国主義からは仲間はずれにされて孤立し、最後にはアメリカ相手に戦争せざるをえなくなって、自滅しました。

今の日本政府は、戦前と同じことを考えています。帝国主義のアメリカと仲良くして、しかし今度は仲間はずれにされないように立ち回り、アメリカと一緒に戦争をし、アメリカと同じように戦争を公共工事にして、収支計画を黒字にしようというのです。

国民も冷静さをなくしています。戦後の高度成長期を1990年前後に終えて、バブル景気が破たんして以来、自信をなくしました。12千万人の人口で、世界第3位の国民総生産を計上しているのですから、誇りを持てばよいのですが、政治の中枢はもとより、国民も、冷静さを見失っています。

 

私は、力を持たない一民間人ですが、できることがあると思います。

6年前に鎌倉から移住した北海道の地に、「山水別荘」と命名した、山水学の研究所を作り始めました。

日本の村上華岳(1888-1939)という画家は、「仏陀是山水、山水是菩薩」と言いました。山水こそが、人を生かし、人を律し、人を慈しむ、この世界の本源であり、世界のすべてであるという哲学です。世界は山水であり、世界の本質もまた山水である。

西洋近代の科学主義、工学主義は、分析的で、世界の近代化に大いに役に立ちますが、自然に対するとき、人間を上に置いているために、自らを律する規範に欠けるのです。ですから、極めて攻撃的で侵略的です。帝国主義者には、自然学がないから、足元はいつも干からびた砂漠で、収奪をしなければ暮らせないのです。

私は、東洋に固有の山水という世界観を整理し、統合し、進化させて、東アジアの未来の繁栄と平和に向けて、一矢報いたい。

自然山水こそが、人間を支配する道理なのですから、どんなに賢く頭を使い、立ち回ったとしても、自然山水の道理に反すれば、自然山水に罰せられます。それが信じられれば、日本の政治家も、姑息に立ち回ることの愚かさが理解できるはずです。

 

人間活動と建築を自然に融合させる「風水」という思想の母体であり、自然生態学をも包含する自然学としての山水学確立のために、一歩ずつ研鑽をつむことを申し上げて、本講演を終えたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

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