チエさん

2017.10.03
第一巻 湖水地方レポート

チエさんは、大連生まれの55歳。北海道の酪農家と結婚して、かれこれ20年、日本に住んでいる。ご主人が湖水地方牧場のスタッフとして当初の3年間、尽力してくれた。その縁で、チーズ工房スタッフとして働いている。

 

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3年と少し前、私がチーズ工房と牧場を往復しながら悪戦苦闘しているのを見て、「社長、私、手伝うよ」と、申し出てくれた。当初の1年間は、水牛乳の扱いがまったく分からず、イタリアと連絡取り合い、専門家を招き、文献を調べて、毎日、考え込んでいた。その姿を見るたびに、「社長、必ず良いものができるよ」と励ましてくれたのも、チエさんだ。

 

チエさんは、日本語が完全ではないので、理屈を説明しても、十分には理解できない。中国の学校の授業内容が、日本とは違うから、常識が食い違う。pHと言っても、聞いたことがない。メスシリンダーは、初めて触った。何もかもがそんな感じ。だから、何度も説明して、やっと半分かな。

 

しかし、味覚の感覚がとても鋭く豊かだ。「社長、今日はすごくうまくできたよ。でも、まだまだ。もっと良くできるよ」と、なかなか厳しい。それに、とても献身的だ。

 

十勝は、西に日高山脈、北に大雪山系をおいて、東南の海に開ける、風水上絶好の地だ。加えて、湖水地方牧場は、北に豊頃丘陵を背負って東南の太平洋に開ける高台にあり、元来、電位が高い。牧場には、搾乳所などにも炭埋してあり、工房は地下に2カ所炭埋したので、工房内にはマイナス電子が充満して、極めて電位が高い。そのために、普段は、心の暗闇に隠しているゆがんだ自我が、表に出てくる。新しく参加する従業員は、この洗礼を受けることになる。鏡の前のガマガエル、みたくない自分の姿、はじめて見る、劣等な自画像。プライドが高い人間は、この状態に耐えられない。ストレスを弱い者にぶつける。チエさんは虐められて大泣きに泣いたり、振り回されて寝込んだりする。話し合っても、自分に立ち向かえない人には、やめてもらうことになる。

傷ついたチエさんは、それでもいつも、怒らない理由、気持ちを前向きに整える理屈を一生懸命に探しながら、「社長! 私はやめる、ないよ」と、明るい顔を見せてくれる。もちろん、チエさんは炭埋して電位を上げる前からチーズ工房で働いてきたが、全然変わらない。裏表がないからだね。

 

私が、チーズの質の向上を求めて、毎日のように、少しずつレシピを改善する。放牧ミルクの、季節に応じた質の変化に、着いて行く必要もある。私が説明すると、分かる一語を手掛かりに理解しようとする。次にやって見せると、すぐに覚えて、その通りにやってくれる。

 

今では、大半の工程を任せている。私が前の日の夕方、翌日の準備をする。早朝から、搾乳所と工房を往復しながら、殺菌、スターター添加、レンネット添加・・・そのあたりで、チエさんが出勤する。高校生のお嬢さんが寝坊してバスがなくなったりすると、片道1時間の距離を学校まで送ってから、牧場にかけつけてくる。そこで工房はチエさんに任せて、私は昼前まで、事務室でその日の作業をすることができる。この時間がとても貴重で、本当にありがたい。こうやって「山水記」を書くのも、その時間だ。

 

将来に格別大きな夢を持っているわけではない。仕事が楽しいと言って、いつも真剣だ。湖水地方牧場は、チエさんが命綱だ。

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