「湿地の博物誌」書評 

2018.03.21
第二巻 湖水地方自然博物館

湿地の博物誌書評

『湿地の博物誌』高田雅之責任編集、辻井達一・岡田操・高田雅之著 北海道大学出版 2014年11月25日発行 

                                                                           

 本書は、46の表題すべてを、「湿地の分類学」、「湿地の発酵学」、「湿地の戦史学」という具合に、「学」という視点でまとめている。各表題の中で、論は古今東西を自由奔放に飛び回る。三人の著者が、頭脳の引出しに分類した世界中の資料をつぎつぎに取り出しては、嬉々として知識のつづれ織りを語り明かすのである。

 岡田操氏の論稿は、変幻自在に姿を変える湿地の図像学について、豊かに解き明かしている。責任編集者として本書をまとめあげた高田雅之氏は、過去から未来に向けた美術、芸術を滔々と論じて独壇場だ。故辻井達一先生も、楽しそうに果てしない薀蓄を語り続ける。細部から大局へ、日本からアラスカへ、パタゴニアから中国へ、小さな名もない河川から、ウィスキー醸造の泥炭地へ、未来から過去に、縦横に飛来する論は、談論風発の楽しみでもある。

 ところがこの書物は、決して、湿地に関する好事家のためだけに書かれたものではない。一筋縄にはいかないのだ。

 それを明かにするのが、この書評の役割だとすら考えた。

 それは、本書の原著作となった「湿地と湿地林に関する十二章」を発案したのが、故辻井達一氏だという点にある。

 故辻井達一氏は、マネジメントを考えていた。自然環境の経営である。経営学の泰斗ドラッカーは、マネジメントは、科学であり、実践であり、その全部であると語る。自然環境までマネジメントの対象であるとは言っていないが、故辻井達一氏が考えていたことは、そういうことだった。金を稼ぐという古臭い経営論ではない。自然生物も人間も、関与する者みなが目標をもって連携して、幸福な有機体として未来に向かう仕組みを考え、実践する。

 まずは、湿地が人類にとって大変重要な生態系であることを、あらゆる角度から説明して、市民権を得なければならない。だから、心理学、哲学、倫理学、経済学、歴史学など、人文科学、社会科学、自然科学の広い分野にわたる知識と洞察を身につけなければならない。これは、ドラッカーの言うマネジメント論の基礎なのである。

 本書は、したがって、人文科学でもなければ、自然科学でもない。『博物誌』であるから、水辺をめぐる知識の網羅をめざしている。伝統的な意味におけるリベラルアート、すなわち、「湿地とは何か?」という素朴な問いに答える、一般教養としての湿地学だとも言える。科学を検証の方法論とすることは言うまでもないが、自然に関与するかぎり、「全体」を把握せんとする意志が求められる。人の心の中にある、湿地のイメージを語る文体を探し求める努力であるとも言える。

 故辻井達一氏は、2012年にルーマニアのブカレストで氏に授与された、ラムサール条約賞の受賞記念スピーチで、「湿地に係るようになって60年、日本には水の清い淵に住むカッパの伝説があるが、私の指にもカッパのような水かきができた」と演説して、会場を爆笑の渦に巻き込んだ。

 ラムサール条約は、自然環境保全に対する一般教養を鍛え上げて条約化し、国際間の紳士協定とする努力である。辿り着くのは、自然環境マネジメントへの意志である。その点で、本書もまた同じ意志に貫かれている。一読すれば読者はすぐに、この無際限に広がる知の大海に漂うことが、湿地世界を認識する大局観への鍛錬であると悟るに違いない。

 万華鏡のようにちりばめられた、まさに博物誌の数々には、新しい「知」としての、古今東西の物語が詰まっている。

 この学会誌の読者には、「科学的方法」を以て、湿地を読み取ることに人生を捧げていらっしゃる方々も多々いらっしゃるに違いないが、一度はこの書を読み取る挑戦に取り組まれることを、ぜひともお勧めしたい。夜空に広がる無数の星々ほどもありそうな、膨大な知の彼方に、さらに無数の銀河ほどの「知」の広がりがあることを、悟らせてくれるに違いない。人類の知の身の丈を知る、これこそが、知的教養が与えてくれる効用なのだから。 

初出「湿地研究Wetland Research Vol.6 2016」

 

 以上は、一般社団法人湿原研究所初代代表理事を務めた故辻井達一氏の死後、一般社団法人湿原研究所第二代理事会の理事を務めてくださった、高田雅之法政大学教授と、水文学者岡田操氏のお二人が力を合わせて出版された「湿地の博物誌」の書評である。

ページトップへ戻る